火の国の女、高群逸枝 (熊本県)
熊本地震の被災地出身スポーツ選手が活躍すると良かった!がんばれと世間みんなで拍手。そして、応援を力にかえて頑張る選手に拍手した側も励まされる。くまモンもまた被災地を励まし、被災者に励まされているみたい。熊本城の惨憺たる姿、昔を偲ぶよすが消えそうに見えるが、市町村ともども復興する日がきっと来る。そのお城とともに歩んできた熊本、明治の昔はどんな様子。熊本生まれの女性史研究家、高群逸枝が『女性二千六百年史』に書いている。
――― わが故郷の沈黙の山々を懐ふ。薩摩から日向にかけての国境の山々――阿蘇、祖母、市房、白髪などなど。 わたしは城南釈迦院院岳の山あひに育った。その他にも、白山、雁俣、内大臣などの名山が遠近に起伏していた。
――― 祖母はわたしをおんぶして、山のお化けの歌をうたった。
あの山に ぴかぴかするのは 月か星か蛍か
月でもない蛍でもない あれは山下坊主の目のひかり
高群 逸枝
1894明治27年1月18日、熊本県下益城郡豊川村(現・松橋市)に生まれる。本名はイツエ。父は教師。
熊本師範学校女子部、中途退学。脚気を患っていたが回復して、熊本女学校(福田令寿校長)に編入、4年修了。
――― 熊本女学校の校庭には、楓がたくさん植えてあった。寄宿舎の裏に小さな小川があって、吹き寄せられた落葉が、あるものは沈みあるものは浮かんでいた・・・・・・川の向こうは*徳富屋敷とかいっていたが、蘇峰先生の在熊時代のお屋敷大江義塾の跡であったかもしれない(『女性史二千六百年史』厚生閣)
*徳富蘇峰: 熊本出身。同志社英学校(現同志社大学)中退後、自由民権運動に参画。郷里に大江義塾を設立し、青年教育にあたった。やがて、上京し「国民之友」 「国民新聞」を創刊。わが国の言論界に不動の地位を築いた。
鐘淵紡績熊本工場の女子工員をへて小学校代用教員
1918大正7年、四国遍路の旅にでて『九州日日新聞』に「娘巡礼記」を連載、評判となった。
1919大正8年、橋本憲三と同居生活をはじめる。
1920大正9年、単身で上京。
1921大正10年、生田長江の推薦を得て、長編詩集『日月の上に』 『放浪の詩』。 大正14年、長編詩詩集『東京は熱病にかかっている』出版。
近代生活を呪う都市流民の心境をうたう天才詩人として文壇に登場した。この間に家出。
1926大正15年、事件を素材にして長詩「家出の詩」や、評論『恋愛創生』を書くことによって、女性解放の思想家となった。 平等と社会参加を主張する女権主義に対抗して、特性の尊重と根本的社会変革を主張する女性主義と農本主義的なアナーキズムの立場をとって、平塚らいてうらと無産婦人芸術連名を結成し、夫、橋本憲三の援助もあって1930昭和5~6年、機関誌『婦人戦線』を発刊。
1927昭和2年、父死去。下中弥三郎らの農民自治会に加わり婦人部委員として活動。
1930昭和5年、小説『黒い女』解放社、出版。
1931昭和6年、ほかのいっさいの活動をやめて、女性解放のための女性史研究に専心することを宣言。世田谷の通称「森の家」をたてて面会謝絶の生活をはじめた。
一日10時間以上も書斎で研究に専念し、終生かわるところがなかった。このため洋服はすべて窓際の日の当たる側だけあせて変色したという。
――― 女性史はまとまったものが無いばかりか、たまたま女性のことを集めているのは、みな人物を中心にした教訓書で、史学とはかけ離れている存在でしかない。そこで女性史とは何ぞや、といふことが、第一に問題となる・・・・・・私の修史の目的は、
①.可及的信頼するに足る女性史
②.女性自らによる女性史である。
男性史家の余力の及ばない部分への開拓を兼ねることが、努力の骨子である。
在野の歴史研究家としての生活は、平塚らいてう、市川房枝らがつくった高群逸枝著作後援会の援助と、なにより夫の憲三が家事や雑事をすべて引き受けるという並々ならぬ助力で高群を支えた。
茶の歌
ものおもひ疲れしときにいっぱいの にがき番茶はありがたきかな
憂きことの多かるなべに人間は お茶のむすべを学びしならむ
1936昭和11年、『大日本女性人名辞書』厚生閣
1938昭和13年、『大日本女性史第1巻 母系制の研究』の大著を刊行。
1940昭和15年、紀元二六〇〇年式典の年に合わせて『女性二千六百年史』を出版。
大政翼賛会傘下の大日本婦人機関誌『日本婦人』に「日本女性史」を連載。戦争協力への道筋は著作後援会の中心となった。
――― 故郷の妹の妙有尼が、その寺の法祖の伝記を送ってくれた。そこは三宝寺という田舎の小さな禅寺であるが、法祖は宝蔵国師鉄眼で傑僧である。
1945昭和20年、敗戦後は女性史研究に祖国復興と女性解放をむすびつけようとした。
1953昭和28年、『招婿婚の研究』
1954昭和29~33年、『女性の歴史』全4巻刊行。
1958昭和33年、『日本婚姻史』
1964昭和39年6月7日、死去。
死後、自叙伝『火の国の女の日記』1965出版。同書を若いころ読んで、世の中にはこんな人がいるのかと、夫・橋本憲三にも妻・高群逸枝にも感動した。しかし、肝心の研究は難しそうで読まなかった。
現在、前出の著作の幾部かを国会図書館デジタルコレクション閲覧できる。
参考: 『民間学事典・人名編』1997三省堂 /『コンサイス学習人名事典』1992三省堂/「マイウエイno.77(原三溪に学ぶ公共貢献ものがたり・徳富蘇峰)
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