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2016年6月11日 (土)

「遠野物語」出版の功労者、佐々木喜善(岩手県)

 中井けやき、ペンネームの由来は、中里介山・中島敦・井上ひさしを合わせて「中井」、それに窓から見える欅、大好きなものを並べたもの。でも近ごろ、忙しいからと言い訳して遠ざかってて必要に迫られた本を読むばかり。友人に話したら、「忙しいを分解すると心がない」だと言う。そうか、それは寂しいと本棚から文庫本井上ひさし『新釈遠野物語』をとりだして読んだ。井上ひさし流「遠野物語」書き出だしは次である。

  柳田国男は『遠野物語』を次のように始めている。
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨1909明治四十二年の二月頃より始めて夜分折折訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり・・・・・・思うに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん・・・・・・無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」
 柳田国男にならってぼくもこの『新釈遠野物語』を以下の如き書き出しで始めようと思う。
「これから何回かにわたって語られるおはなしはすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。1953昭和二十八年十月頃から、折々、犬伏老人の岩谷を訪ねて筆記したものである・・・・・・山神山人のこの手のはなしは、平地人の腹の皮を少しはよじらせる働きをするだろう」

 
 自分は怖がりだから“平地人を戦慄せしめよ”に読むのやめよう。でも、“腹の皮を少しはよじらせる働きをするだろう”それなら昼間読めば大丈夫とページを繰り、いつしかひきこまれた。
 遠野の人は、神秘に満ちた深い世界と隣あわせていたのだ。きっと今もだ。東日本大震災の被害にも負けず、岩手の人々に「遠野物語」が息づいてると思いたい。
 実は、『遠野物語』イコール柳田国男とばかり思い込んでいた。元はといえば、佐々木喜善こと鏡石がいて世に広まったのを知って、佐々木喜善はどういう人物か、人名事典をひいてみた。明治・大正期の作家・民族研究家。号を鏡石、筆名繁とあった。

      佐々木 喜善 (ささき きよし)

 1886明治19年、上閉伊郡土淵村山口(現、遠野市土淵町)に生まれる。
 岩手医学校
 哲学館(現、東洋大学)
 早稲田大学文科、病気のため中退して帰郷。
   郷里で村農会長、郡農会議員、県農会議員、村長などをつとめた。ある事件、失政のため村長を辞める。その後、民族研究にうちこみ、とくに昔話の採集に大きな業績をあげ、柳田らの昔話研究の路をひらいた。その間にも創作を志し、「芸苑」「アルス」などに短編小説などを発表。

 1908明治41年頃、創作「長靴」を発表。夢物語と現実の対比が効果をあげ、文壇の一部から注目をあびた。文学上の交際がひろがり、水野葉舟・三木露風・北原白秋・前田夕暮らと往来する。水野は新進作家で、佐々木と柳田との出会いは水野の紹介によるという。
 1910明治43年6月、『遠野物語』出版され、日本民俗学のバイブルとなる。
   佐々木はこの年、病にむしばまれて帰郷する。しかし、文学への意欲は旺盛で文芸誌に発表、在京の仲間たちとの文通も欠かさなかった。ところがせっかくの作品も中央での反応は乏しく、次第に民間伝承の収集に傾く。佐々木は友人に資料を照会したり、自身でも現地にでかけ、江刺・和賀・岩手・紫波・胆沢の各郡にある昔話を集録し発表していく。

 1920大正9年、『奥州のザシキワラシの話』(玄文社)を出す。
 1922大正11年、『江差郡昔話』。
 1926大正15年、『紫波郡昔話』(郷土研究社)
    『東奥異聞』(坂本書店)は、昔話の発生、原因、分類、考証からなる理論書。

 1927昭和2年9月、『老媼夜譚』(郷土研究社)昔話採取の模範とされる一部を抜粋。

  大正12年の冬(旧正月) ―――村の辷石谷江(はねいしたにえ)という婆様と親しい知り合いになったお陰で、かなり多くの昔話を聴くことができた・・・・・・私は婆様の家に、一月の下旬から三月の初めまで、ざっと五十余日の間ほとんど毎日のように通った。深雪も踏分け、吹雪の夜も往った。(中略) この婆様から聴いた話は、口碑伝説までを交えて、総てで百七十種ほどであった。そして其の話の大部分は、子供の時、其の祖母から聴いたもので、おらの祖母のお市という婆様はまだまだおらの三倍も四倍も話を知っていた。 
           (自序、昭和2年5月5日、仙台北三番町の旅舎にて)

 1928昭和3年から、生涯を終えるまで仙台市に住む。
 1931昭和6年、昔話の集大成『聴耳草紙』を出版、金田一京助に、日本のグリムとまで賞賛された。不如意の境遇で世を去った佐々木にとって、せめてもの幸いであった。
 1933昭和8年9月29日、心血をそそぎつくした民間伝承の採集資料と著書のある手狭な座敷で、突如として死をむかえた。佐々木喜善の生涯は、一貫して古き素朴な日本人の心の追求であった。

   参考: 『岩手の先人100人』長尾宇迦ほか1992岩手日報社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

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