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2016年6月 4日 (土)

わらじ村長38年間無給、鎌田三之助(宮城県)

 駅のホームでスマホ片手に乳母車を押すママを見かけヒヤヒヤ。乗り物にベビーカーが解禁になって日がたつ。幼児連れで外出しやすいが歩きスマホは危ない。でも逆ギレされそうで注意できない。そのいっぽう中高年も余裕がないのか幼い児を煩がり、迷惑がる。
 世間一般寛容を忘れギスギスしている。テレビをつければ、がっかりなニュース。現実を見て見ぬ振りことばが上滑りの政治家、はたまた公私の別もない政治家が金銭に執着、恥ずるふうもない。本さえ読めればいい者には、力業で地位や金銭を掴み獲り恥も外聞もないのが解らない。欲に取り憑かれたら最後、終わりがない。それでも、世の中がっかりな奴よりまともが多い。そう思わないとやってられない。ぶつぶつ言いながら『宮城県の歴史散歩』を開いたら、どこかの知事に教えたい人物が載っていた。「財政難の村の村長を84歳で退職するまで10期38年間無給で村政を行った」宮城県志田郡鹿島台村長・鎌田三之助である。

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              鎌田 三之助                       

 1863文久三年、陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現・宮城県大崎市)に生まれる。鎌田三治の次男。鎌田家は仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄。祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。

 1878明治11年、政治家を志して上京、明治法律学校法学部(現・明治大学法学部)や漢学塾で学んだ。やがて、郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教えた。
 1894明治27年、志田郡会議員を経て、32歳で宮城県会議員に当選。
 1902明治35年、第7回衆議院議員総選挙に立候補し当選。2期務める。
 1904明治37年、解散総選挙以降、3度立候補するも落選。
   潜穴(もぐりあな)3条を掘って、品井沼の水を松島湾に流し込み、明治潜穴工事の実現に向けて準備を整え、メキシコへ渡航。代議士の時から構想していた移民計画を実行するため1906年明治39年、メキシコに渡ったのである。


 ――― 鎌田三之助、先ごろ墨西哥(メキシコ)に遊んで其の風物に眷恋(けんれん)し、しばしば杖を曳いて山川水沢を跋渉す。一日沢畔(たくはん)を過ぎて大鰐長二間余なるが巨口(おおぐち)開て道に当れるを見る。三之助吃驚仰天食われては大変と一目散に逃げ戻り、これを通弁(通訳)に語れば、曰く「鰐は自分に害を加えぬ貴客(あなた)を食はうとするのではない。彼は歯の間へ虫が湧くといつでもああして口を開けるのです。すると鳥が来てその虫を拾つて食うのです」と、三之助呆れ返つて暫く語なし。
   (『名士奇聞録』橘溢生1911実業之日本社)  
    写真: 『北米墨西哥植民案内』鎌田三之助著1908成功雑誌社より

  品井沼は、北部の大松沢丘陵、南部の松島丘陵、西部の奥羽山地、そして東部を流れる鳴瀬川につづく大きな沼であった。江戸時代、仙台藩主の新田開発により品井沼沿岸地区の荒れ地が拓かれた。のち、品井沼の水を松島湾に流すため大工事が開始され、潜り穴大工事(元禄潜り穴)が完成。617町歩もの新田が得られた。
 元禄潜り穴は、堤防の補修や潜り穴の土砂の取り出し作業(ずり出し)など仙台藩直轄事業により6回も海舟工事が行われた。明治時代になると宮城県令松平正直が、干拓工事の必要性を内務省に説き、1882明治15年には、オランダ人御雇技師ファン・ドールンによる実測がなされた。しかし、沿岸の3郡5ヵ村は、品井沼沿村組合を結成、独自に事業計画を作成して、県と交渉を続けた。
 1899明治32年、県会議員の鎌田三之助らの尽力によって予算を獲得し、新排水路の実測調査が行われた。
 1907明治40年、品井沼排水工事をめぐり工事推進派と中止派に住民を二分する対立が起き、三之助は事態収拾のためメキシコからの帰郷を余儀なくされた。
 急ぎ帰国した三之助は、再び事業を軌道にのせるべく奔走し、同年、潜穴3条の排水路をもつ明治潜穴が着工された。
 1910明治43年、潜り穴の崩壊・落盤、設計変更による工費の増額などの困難をのりこえて完成を迎えた。
   国道346号線沿いの松島町幡谷には明治潜穴公園があり、そこから煉瓦造りの明治潜穴の穴頭を見ることができる。大正・昭和とその後も事業はつづき、品井沼は姿を消し広大な水田地帯となった。先人達が戦い続けた勝利の証しは実りの秋、見渡す限りの穂波。

 1909明治42年、三之助は財政難にあえいでいた鹿島台村の村長に推され、10期38年間、84歳で退職するまで無給で村政を担当。村長職にあって品井沼干拓事業にも尽力した。
   在任中は、「鹿島台村申合規則」をつくって村人に倹約を説き、みずからも実践した。村財政の建て直しに努力し、在任中、無報酬(旅費を含む)を一貫して通した。つねに小倉木綿の洋服、脚絆に草鞋履き、腰に握り飯という格好で通し、「わらじ村長」と呼ばれ親しまれた。

 1927昭和2年12月17日、藍綬褒章を下賜される。
   ――― 資性篤実つとに村長に挙げられ爾来、鋭意自治の発達に力を尽くす。殊に率先、品井沼排水開墾事業を主唱し、苦心経営遂に其の工を成し、田地8百町歩の水害を免れしめたる。しかのみならず新たに892余町歩の耕地を得、今や移住者の300戸の多きに達す。洵に公同の事務に勤勉し労効顕著なりとす。

 1945昭和20年8月15日、敗戦。
 1946昭和21年、戦後、公職追放となり村長を辞任。
 1950昭和25年5月3日、死去。87歳。
    鹿島台小学校の校門脇に三之助を称える銅像が立ち、大崎市鹿島台町に鎌田記念ホールが建設され記念展示室が設けらている。

   参考:『宮城県の歴史散歩』宮城県高等学校社会科・歴史部会2007山川出版社/ 国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/ 

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2020.10.22 「世界一貧しい大統領」政界引退(毎日新聞コラム)
  --- 南米ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ上院議員(85)が20日、政界引退を表明・・・・・ 慢性的な免役系の持病があるとして新型コロナウイルスの流行が引退の一つの理由だと述べた。「議員の仕事は人と話し、どこへでも足を運ぶことだ」として、感染の恐れから、それができなくなった・・・・・ 報酬の大半を寄付して農場で暮らすなど清貧な生活ぶりが日本でも人気となった・・・・・ 2016年に訪日し、広島がもっとも印象に残ったと話した[サンパウロ共同]。

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