後進育てた無私の陸軍監督総監・野田豁通&続「遠野物語」出版功労者・佐々木喜善
岩手県水沢市出身の山崎爲徳(神学者)は後藤新平(政治家)や斉藤実(海軍大将)と縁続き。15歳で野田の学僕となり、野田が帰郷のさい伴われて熊本に行き熊本洋学校に入学。この話に『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』に描いた野田豁通を思い出した。
――― 1871明治四年、廃藩置県があり、政府は府知事、県知事(県令)を派遣。青森県に大参事として野田豁通がやってきた。13歳の柴五郎は青森県庁の給仕となり、野田の邸に引取られる。五郎は野田家の雑用をしながら県庁の給仕として働いた。雪道を早朝出勤して火をおこし雑用をこなし、宿所に戻っても雑用をしなければならなかったが、飢餓の日々をおもえば辛くない。野田は書生の面倒をよく見、後進の少年にたいし倒幕派、佐幕派といった差別をしないばかりか、厳しく叱りつけるより良いことがあれば温顔をほころばせて喜ぶという人間であった。野田の書生として後藤新平・斉藤実など知られる。五郎は野田の大らかさ、その情けにふれ、将来に希望をもつことができたといってもよい。
野田 豁通 (のだ ひろみち/かつつう)
1844弘化元年12月24日、春日村に住む熊本藩士石光家の三男。幼名を太造。
1853嘉永6年、藩学時習館に入り、論語、孟子、左傳など素読、算書を学ぶ。
1859安政6年、数え年の15歳で同藩士、野田淳平の養子となる。養父は奉行所の役人で武芸を好み、野田も文事を後にして武芸が先になった。
1861文久3年、当時、尊皇攘夷の説が四方におこり熊本藩内も騒がしかった。野田は藩命により争乱の巷の京に上る。当時、熊本藩は寺町御門を守っていたので野田も草鞋履き、手にはケーベル小銃をもち、腰に重い銃丸を下げて従った。
1866慶応2年、長州戦争。会計書記として出征。
1868明治元年戊辰の6月、選抜され三名で京に上り横井小楠(熊本藩士、思想家)に入門、また三岡八郎(由利公正)について会計を学ぶ。ときに戊辰戦争のさなか、維新政府側の秋田・津軽藩が奥羽で攻撃を受けると二藩をたすけるため政府は宇和島・福山・大野の三藩の兵をだして奥羽に向かわせた。
野田は軍務官(参謀)試補としてこれに従い、玄界灘を出発した。出征したものの季節は冬で寒さもあり、奥羽の地理にはうとく苦戦。
1869明治2年、戊辰最後の戦、箱館戦争。榎本武揚ら脱走幕府軍と戦い九死に一生を得る。8月凱旋。そのさい仙台岩波の名取川畔の民家にさく白萩をみて養父を想い一首、
古さとの垣根の萩の咲初めて 父のこころをなくさめやせん
同年、胆沢県(岩手県水沢市)が創立され少参事となる。この時の学僕が山崎、後藤、斉藤。翌年、管内巡回中、栗原郡の有名な産馬地・鬼首村の荒雄川が氾濫したのを無理に渡ろうと泳ぎ溺れかける。助けられて「暴虎馮河」の無謀を反省。
1871明治4年、廃藩置県。野田は弘前県大参事に任ぜられるが、弘前、松前、黒石、斗南(会津藩移封の地)、七戸、八戸の6県を合併して青森県となった。野田は青森県権参事、県令は菱田禧が任命され県政を担った。ところが、斗南藩士授産の事で菱田と意見が合わず、翌明治5年5月、野田は辞任して東京に出る。
1873明治6年、再び陸軍省に出仕。このころ青森から東京で下僕をしていた柴五郎と会い陸軍幼年学校生徒の募集を教える。幼年学校を受験、合格した五郎に道が開け、やがて陸軍大将となる。この辺りの事情がいきいきと描かれているのが『ある明治人の記録』、著者・石光真人は野田の甥・石光真清の子である。
石光真清は軍人になり柴家に下宿したこともある柴五郎の生涯の友人である。石光真清には『城下の人』『曠野の花』など著書があり、知る人も多いだろう。
1877明治10年、西南戦争。野田は警衛兵会計部長を命ぜられ、第一・第二旅団の会計部長として出征。見廻り中の尾月原摘塚砲台で敵弾にあたり負傷。第二旅団会計部長選任。
4月、軍団被服陣営課専務担任、5月、課長。7月、軍団糧食課長兼勤を命ぜられ功があった。11月9日、戦死者の招魂祭が行われた。
1879明治12年3月、陸軍会計副監督、第五局第八課長。10月、会計局計算課長。
1880明治13年4月、輸入品購求手続取調委員。翌14年2月、陸軍会計一等副監督、8月、西部検閲監軍部長属員。
1882明治15年一月、会計局次長、東部検閲監軍部長属員。17年1月、会計局次長。
1886明治19年3月、会計局第一課長、陸軍二等監督。
12月、ドイツ陸軍経理視察に2年間派遣となり、軍事視察に赴く川上操六陸軍中将・乃木希典陸軍中将とともに渡航する。ドイツで、グナイスト、スタインらに学び、またベルリンで陸軍各官庁、各隊の実況を調査。のち、『独逸陸軍経理大要』上下巻著す。
1888明治21年7月、帰朝。陸軍予算調整法を改正。最も多額にして最も錯雑なる陸軍会計をよく整理の実をあげた。11月、会計局次長。
1889明治22年、大日本帝国憲法発布式に参列。
1890明治23年3月、陸海軍連合大演習監督部長を命ぜられる。
帝国会議が開催されると、第15回議会まで終始、政府委員となり、陸軍会計事務の代表として議員の質問、攻撃に対した。
1891明治24年、陸軍経理局長に補せられる。
1893明治26年7月、臨時行政事務取調委員。第五・六師団の会計整理を審査。
1894明治27年、日清戦争。大本営野戦監督長官として、大本営のある広島へ赴き、戦役間および戦時に属する会計経理をみる。その野田を評して「征清百傑伝」著者は、
――― 君、天資磊落、面してまた順良なり。故にある時は鬼神の如く、ある時は児童の如く、花の如く、中に侵すべからざる慮ありて、敬慕措く能わず、左の一首をみよ。いかに優しく、いかにゆかしきかを、
もののふの猛きこころも 小金井の花には 駒にのりそかねつる
1901明治34年6月、
――― 二十七八戦役における征清の役に際し、野戦監督長官として、会計整理の任を完うし、凱旋の後男爵華族となり、新制を開き、戦後会計の整理をなしたる陸軍会計監督総監正四位勲二等功三級野田豁通君は、俄然冠を懸けたりき・・・・・・今や功なり名遂げて求むる所なきに因るか
1913大正2年1月5日、東京本郷区金助町の自宅で死去。
資産は残っていなかった。晩年、さまざまな事業を行ったようだが、どれも失敗して私財を失ったようだ。熊本の養家の妻と、東京の家の妻との間にそれぞれ子があった。
参考: 『死生の境.後編』田中万逸1912博文館 / 『征清百傑伝.上巻』天竜漁史1895奎光堂 / 『内外名誉録.第一編』栃内吉古編1902内外名誉録出版事務所 / 『ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』石光真人1984中公新書
********** **********
続・「遠野物語」出版の功労者、佐々木喜善(岩手県)
先だっての“佐々木喜善と柳田国男”の二人に関するものが、毎日新聞夕刊2016.6.14<「論の周辺」在野の研究者・大井浩一>に載っていた。官職とか政治とかに縁がないせいか「在野」に目がいった。次はその一部、
――― 自ら「在野史家」と称する礫川氏は「在野研究者・本山桂川に学ぶ」・・・・・・
本山は柳田国男と同時代の民族学研究者。礫川氏によると、「民族学の泰斗」である柳田氏に対し「本山ほど、『遠慮』なく、ものを言い続けた人」はいなかったらしい。柳田の有名な『遠野物語』は、岩手の佐々木喜善が提供した話を素材にしているが、その佐々木が「人生最大の窮地」に陥った時、「柳田に助けを求めて拒絶された」一件があったという。本山はこれに「義憤」を覚え、そう表明する一方、佐々木が亡くなると旧稿を集めた本を企画・編集するなど「思いやりの心があった」。
記事の終わりは
――― 専門分化を極めた今の学問が健全さを失わないためにも、在野の志を持つ人々は必要な存在だと感じる。
自分は学者でもなんでもないが、なにか励まされたような気になった。そして、この地味ブログを読んでくださる中にも同感の方がありそうな。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
上の人とは全く違うんですが、すいませんが、谷干城遺稿に該当の部分は見当たりません。国立国会図書館 谷干城遺稿で検索したページのどの部分にあたるでしょうか?見てみてもらえますでしょうか。
投稿: T.イコウ | 2017年12月29日 (金) 02時55分
大変素晴らしいブロクですね。ご本買わせていただくかもしれません。古い記事ですが大変良い記事です。これからも多くの皆様が読まれることを願っております。
neo様
温かいコメントありがとうございます。読んで下さる方に感謝しつつ、これからも毎週こつこつ更新していきたいと思います。
けやき
投稿: neo | 2016年7月24日 (日) 21時36分
コメント質問にお答え
ずいぶん前のブログでなつかしい。読んで下さってありがとうございます。いつの間にか文字数が増えてしまいました。
谷干城の史談会での言葉は、拙著『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』p263にあります。
出所は『谷干城遺稿』雑説・「歴史編纂」です。
コメント、質問をお寄せ頂くことがありますが、無記名や、アドレス無しがあります。コメントは、まず筆者に届き、それから公開しています。アドレスがあれば返信できます。
投稿: 中井けやき | 2016年6月21日 (火) 09時22分
初めまして、**と申します。
いつも面白い記事ばかりで、ほとんど拝読させていただいております。
だいぶと古い話なのですが、下記の一文の出典についてですがどの著書のどの部分かおわかりになられますでしょうか?
たいへん興味を惹かれた話でしたので。
お手間をお掛けして申し訳ありません。
2009年10月 7日 (水)
本ほんご本:歴女におすすめ史談会速記録
「なにぶん勝手放題なことをいい、争論になると銘々が知ったことをいう。またありのままを言うと決闘状が来る。お山の大将我れ一人。薩長の方は勝武者で鬼の如し、どんな都合の悪いことでも都合の良いように直すことができる。が、佐幕、謀反人と目された方は本当のことは言えなかった」(谷干城)という。
投稿: タオカ | 2016年6月21日 (火) 02時15分