女子体育の母、二階堂トクヨ (宮城県)
いよいよリオ・オリンピックが間近になった。現地では準備不足らしいし、ジカ熱の問題もある。「選手の皆さま気をつけてご活躍を」そしてご無事の帰国を願っています。身近な所でも、トレーナーや練習相手?などリオに出発した人達がいるが各々スポーツ人でカッコいい。そういう人はたいてい教室や講座を開いてい、下手な者でもお世話になれる。
先日、オリンピック選手の卓球教室に参加。お手本の素晴らしさに目をみはり、自分の出来なさを痛感、でも、教わるって楽しい。今は誰でも運動やスポーツ競技を楽しめる時代になった。多少費用はかかるが一流の指導も受けられる。そして身体を動かす楽しみに男女の別はない。ところが昔は「女だてらに」という言葉があり、女子はおしとやか優先。その時代に留学して体操を学び、教えたのが女子教育者・二階堂トクヨである。
二階堂 トクヨ
1880明治13年12月5日、父・保治、母・キンの長女として宮城県志田郡三本木町桑折18番地で生まれる。
1887明治20年4月、志田郡松山町立尋常高等小学校に入学。同年、三本木村立尋常小学校に転校。28年3月卒業。
1895明治28年11月、検定試験により、尋常小学校本科准教員免許を得る。
1896明治29年3月、隣県の福島女子師範学校入学のため、福島県安達郡の士族・小笠原貞信養女となり小笠原姓を名乗る。
同年4月、福島女子師範学校入学。国語の教師になろうと勉学一筋に歩む。
1899明治32年、福島女子師範学校卒業。高等小学校本科正教員の免許を得る。
1899明治32年4月、福島県安達郡油井村立尋常小学校訓導となり、傍ら師範学校入学のため猛勉強する。
1900明治33年4月、東京女子師範学校に入学。尾上八郎(柴舟)について和歌に凝った。次は本人お気に入りの自作和歌
大磯の浦風なぎし小夜なかに ちいさく見ゆる箱根路の野火
1904明治37年、卒業。教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を得る。漢文は早くから「日本外史」を読破していた。
1904明治37年4月、石川県立高等女学校(金沢高女)に赴任。国語を教えたかったが、体操を指導することになった。当時、体操は下に見られていたし、二階堂自身も学生時代、
「これほど下らないものは天下にあるまい」と、体操の授業を毛嫌いしていた。しかし、彼女を襲った二度にわたる大病と家族を襲う不幸のために、また自身の命もあと僅かだしと投げやりな態度だった。ところが、体操の授業を行うことによって、健康を増していった。成果をあげて評判となり、ここから試行錯誤の体操にかける人生がはじまる。
同年8月、文部省体操遊戯講習証書を得る。
1907明治40年7月、高知県師範学校教諭兼舎監に任命される。受持時数19時間の中、歴史が1時間で、高知では自他共に許す体操教師となっていた。
1909明治42年7月31日、小笠原家より二階堂家へ復籍。
1911明治44年3月、東京女子高等師範学校助教授。
1912大正元年10月、体操研究のため、満二カ年間英国留学を命ぜられる。
<官報.1912年11月22日 学事 文部省外国留学 東京女子高等師範学校助教授 二階堂トクヨハ一昨二十日出発セリ(文部省)>
イギリス・キングスフィールド、サウスウエスタンポリテニック、バーミンガム、ベッドフォード、スコットランドのダムファーリンなどの各体操専門学校において修業、スウェーデン体操の理論と実際などを学ぶ。
1915大正4年4月、帰朝。往きと同じ、インド洋を廻り神戸着。
<官報.1915年05月08日 ○学事: 留学生帰朝 文部省外国留学生東京女子高等師範学校助教授 二階堂トクヨハ去月二十七日帰朝セリ(文部省)>
同年5月、第六臨時教員養成所教授兼東京女子高等師範学校教授 年報金六百円下賜(5月4日文部省)
1917大正6年9月、『足掛四年・英国の女学界』(東京宝文館)、翌年8月、『体操通俗講話』(東京宝文館)を出版する。http://kindai.ndl.go.jp/ 国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。
1921大正10年、文部省視学委員を命ぜられる。
1922大正11年、(大正7年より)東京女子大学体操科授業を嘱託される。
二階堂は生徒に、体操は「精神に気持ちよく、身体にこころよからしむ」と教え、ダンス、体操、遊戯、スポーツの各分野を広く研究した。
しかし、こうした考え方は、同じスウェーデン体操ながらも鍛錬的体育との折衷的な「学校体操要目」をまとめた上司の*永井道明の考え方と対立、東京女子高等師範学校を辞職する。
*永井道明(ながいどうめい):茨城県出身。明治・大正期の学校体育指導者。姫路中学校長のとき、スポーツ奨励に熱心な武田兵庫県知事と出会い、その推薦で文部省から海外体育事業調査に出張。日本最初の「学校体操教授要目」の作成に着手。日本におけるスウェーデン体操の権威で、学校体操の父といわれた。
1922大正11年4月15日、東京代々木山谷に私学、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を創設し、女子の体育指導者を養成した。情熱あふれる先生、そして教育愛にもえた二階堂先生は授業中厳しかったが、一方で生徒の面倒をよく見たので慕われた。
ある時は、豊かな黒髪をきりりと二百三高知まげに結い前髪をふくらませて、声量豊かな声で号令をかけたいた。なお、塾の経営は楽ではなかったようだ。
1923大正12年9月1日、関東大震災。塾舎が半壊したので松原に移転、翌年竣工。
1926大正15年3月24日、財団法人日本女子体育専門学校に昇格。卒業生は中等教員有資格となる。
1941昭和16年7月17日、東京慶応病院において永眠。享年61歳。
参考: 『二階堂トクヨ伝』戸倉ハル・二階堂清寿・二階堂真寿1967不味堂 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂
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