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2016年7月23日 (土)

裏磐梯に植林、緑と観光に尽くした遠藤十次郎(現夢) (福島県)

 NHK番組<ブラタモリ>よく視るが、先日のテーマは[会津へ 磐梯山は宝の山]。今回もご当地専門家に加えタモリの博識に感心しつつ磐梯山は宝の山と納得。番組終盤、裏磐梯を宝の山にするために尽くした人物・遠藤現夢を紹していた。もっと知りたいと手元の人名辞典をひいたがなかったのでネットで検索、参照させてもらったホームページは参考欄に。

     遠藤十次郎(現夢)

 1864文久4年1月10日(ちなみに2月20日から元治1年、明治維新まで後4年)、
   会津若松新横町の商家、滝口太右衛門の12男に生まれる。
   幼少期から剣術を習い、一刀流を極め、人にも教えた。
   ?年、 大町の米穀商の大和屋遠藤家の婿養子となる。その後、 旧日新館跡に分家し、味噌・醤油の醸造業を開く。

Photo 1888 明治21年7月15日、磐梯山爆発
   午前7時半頃、大音響とともに火柱を噴き上げた。鳴動と地震は二時間にわたり山頂は吹き飛んだ(図の点線は小磐梯)。天から石と灰が降りそそぎ、泥流は北側山麓を時速77kmのスピードで襲い集落を呑み込んだ。秋元、細野、雄子沢の3集落を壊滅させ、犠牲者は死者463(or444)人という多大な損害を与えた。

 東京日日新聞は「大噴火、岩瀬村全村埋没」・「檜原村は池沼に」、官報は「二里四方の草木枯死」と報告。

Photo_4

図の点線は、崩れ落ちた小磐梯。

 噴火翌年、災害の跡も生々しい当地を、柴四郎(東海散士)、*谷干城、*佐々友房、柴五三郎一行4人が東北への遊説途中訪れた。猪苗代湖東岸の山潟亭に泊り、磐梯山に上って大噴火跡を見物。
 谷は戊辰戦争の時、政府軍の将として会津を攻め、檜原村長坂村はそのとき村民を喪っている。それなのに長坂村は今また噴火のため百人以上が圧死。そのうえ岩瀬川が決壊、洪水で家や田畑が流されるという惨状。「天なんぞこの村民に無情なるや」 災害の大きさにの一同言葉がなかった。

   *谷干城: 土佐。軍人・政治家。西南戦争で熊本城を西郷軍から死守した陸軍将軍。
   *佐々友房: 肥後熊本。政治家。西南戦争で西郷軍について敗れ懲役刑となり、のち特赦放免となる。
 
 1901明治34年、若松・田島間の新道開発に伴い、遠藤は運送業をはじめた。また、城の近くに住んでいたので、松平家から若松城(鶴ヶ城)の公園管理を任せられていた。ほかに、お城の堀に川から水を引き、コイの養殖も手がけた。

 1908明治41年、歩兵第65連隊が設置されると、それを記念して友人とともに千本のソメイヨシノを若松城と連隊営門前に植樹し、一帯はのち桜の名所となった。そして、公園管理の功績により松平家から手水鉢一対を贈られ、その一基は本丸内に置かれている。

 ところで、噴火後の裏磐梯は一年どころか十数年も火山灰や泥流で埋めつくされ、荒野のままであった。そこで、遠藤は荒れ地を緑化し森に変えたいと願っていた。
 1907明治40~43年ごろ水力発電の開発を企画し裏磐梯の探査があり、遠藤は国が民間人に植林させた後、その土地を低価で払い下げようとしているのを知る。

 1910大正8年、遠藤は植林の権利を手に入れ、植林を開始。
   荒廃した土地478町歩余りを払い下げてもらい、私費を投じ、約2年をかけ気の遠くなるような1340haに及ぶ広い土地に植林を行った。
 技術の指導を林学博士の中村弥六に、また財政支援を宮森太左衛門らから受けた。一方、現場で監督した斉藤丹之丞は20年も番小屋に住み着き、中心となって苗木の生長を見守った。

 中村弥六は信州の人、衆議院議員。ドイツに留学し森林専門学校を経てミュンヘンの大学を卒業。農商務省山林局に出仕、大小林区の監督に従事、「日本林業の祖」とも伝えられる。中村は、荒地に赤松が適していることを遠藤にすすめ、五色沼湖畔に建てた小屋で遠藤と起居をともにしながらアカマツを植林した。アカマツは根付かせるのが難しかったが遠藤らは、失敗にもめげず2年がかりでに成功させた。
 アカマツ5万本、ほかにスギ3万本、ウルシ2万本の苗木を東京ドーム285個分の広い荒野に植林したのである。
 苗木10万本は新潟方面から岩越線(磐越西線)で運び、さらに猪苗代からは馬車で裏磐梯方面に運んだ。当たり前ながら、かつての道路は埋没したままで至るところ大きな岩がごろごろ、または泥濘なので新たに道路を造りながら前進しなければならず困難をきわめた。
 そして、「植林成功届」「官有地払下願」提出の日がきた。しかし、政府は当初の約束と違い国有林のままだという。そこで中村弥六が原敬首相に直談判、478町歩余りを払い下げてもらうことができた。
 遠藤らは中村に感謝し土地の一部を贈ろうとしたが、中村が断ったので記念にその土地の沼を「弥六沼」と名付けた。

 1930昭和5年、遠藤は裏磐梯の観光開発のため磐梯施行森林組合を設立。
    植林した赤松を使って噴火口から引湯する温泉開発を計画したが湯量が少く計画はつまずいた。ほかにも檜原湖南岸の道路や五色沼の道路の改修にも多額の出費が重なったため、家産が尽きた(宮崎十三八『会津地名・人名散歩』)。
 遠藤十次郎は裏磐梯山に豊かな緑を残したが、家業は傾き財産が尽き、苦悶の末に倒れこの世を去った。その日が資料でことなる。
 1934昭和9年12月6日、71歳/1934昭和11年、73歳。

   現夢が生前に立てた墓碑と、磐梯山噴火で亡くなった犠牲者の慰霊碑が五色沼(柳沼)のほとりに。磐梯山噴火で落下した巨石の下に妻イクと共に葬られ、墓碑には辞世の句
   “なかきよに みしかきいのち五十年 ふんかおもへば夢の世の中”

    参考: 『福島県耶麻郡磐梯山噴火詳誌』佐藤誠之助1888 / 『磐梯山噴火の図』錦絵帖(国会図書館古典籍資料・錦絵 http://kindai.ndl.go.jp/ ) / 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき
http://www.kikori.org/nippon/fukushima/province-02.htm“きこりのHP”
https://machitabist.theblog.me/posts/38876  “マチタビスト”
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin35.htm “会津人物伝”
https://ja.wikipedia.org/wiki/ ウィキペディア “遠藤現夢”

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