明治の漢詩人・文章家、館森袖海 (宮城県)
このところ漢字の表題ばかりで知恵がないが、またも漢字の塊の漢詩漢文で名声をえた人を紹介する。漢字の手書きはままならないが、パソコンだと難しい字がさっと出てくる。言い換えるより漢字が手っ取り早くついつい頼ってしまうが、筆者は漢詩の雰囲気は好きでも自力で読めない。ところが、明治人は漢詩文も得意で英語など外国語もできる人物が多い。森鷗外はドイツ、夏目漱石はイギリスに留学して語学が堪能なうえに、漢詩もすぐれているのは有名。
明治期は西洋文明の取りこみに忙しい一方で、漢詩は空前のブームといっていいほど盛んになり空前の発達を遂げた。幕末以来、士人は己の思想感情を詩にしてきたが、旧大名や政府高官らが漢詩をつくり、それが一般にもひろまり盛んになった。また、印刷術の発達で雑誌・新聞に発表でき、詩集の発行もこれまでより容易になった。
江戸から東京になって人材が四方から集まり、学者の私塾や詩社がつぎつぎと起こった。安井息軒の三計塾、大沼沈山の大沼学者、岡千仭(鹿門)の綏猷堂(すいゆうどう)、また森春濤の茉莉吟社、成島柳北の白鴎吟社などなど。そして地方でも詩社が作られ雑誌が発行された。
漢詩文は学者が室に籠もって作るものより、官吏などの職務を果たすなかで生まれ、または、一人で或いは友との旅をし、詩や紀行文にしたものが多い。そうした一人に館森袖海がいる。彼は日清戦争後の台湾総督府に就職し、仕事の間に中国本土を旅している。幕末に生まれ昭和まで生きたその生涯をみてみよう。
館森袖海 (たてもり しゅうかい)
1863文久3年12月3日、陸奥国本吉郡赤岩村(宮城県気仙沼市)に郷儒・館森古道(臥雲)の子としてうまれる。名は万平。字は鴻。号は袖海・拙存園。
1884明治17年、上京後8年余りの間に、堤静斎ついで岡鹿門、重野成斎に漢学を学ぶ。岡千仞の綏猷堂は旧仙台藩の藩邸にあったが、そこに岡と同じ宮城県出身の館森鴻(袖海)が入門したのである。それに加えて、英語・数学も修めた。
1893明治26年、帰郷して、気仙沼で知新学舎を開く。
1893明治27年、日清戦争。戦後、台湾は日本領土となる。
1895明治28年、台湾総督府文書課に奉職。
台湾では、内藤湖南・籾山衣洲、亡命中の章炳麟らと交わる。
1896明治29年4月、『土佐日記釈義』(台湾総督府文書課員)著す。
1901明治34年1月、漢文「姑蘇記游」をあらわす。台湾から蘇州など中国の南の方の名勝地を日本人や中国人の友人らとの紀行である。行く先々で昔を偲んでいる。漢学の素養があるから、中国の歴史に通じているから景色にみいるだけでなく行く先々の歴史をも楽しんでいる。師の岡鹿門なども中国に渡って有名な文人と交流している。館森は、 国分青厓、田辺碧堂とのつながりで晩年の仁一郎と交友があり、青涯、碧堂と共に『五峰遺稿』の編集校閲を行った。
館森の “姑蘇記游”の序文を原文でなく読みで少し、それと後半の部分で分かりやすい部分を引用する
――― 一月十七日、台北を発す。二十三日、上海にいたり文監師路の逆旅に寓す。連日雪降ること繽粉たり。二月一日に至り始めて晴る。山根立庵(長州の人)、予に蘇州に遊ぶことを勧む。遂に次日を撰びて発程し、蘇州より常熟に入り、また霊嵒(れいがん)を観る。十一日上海に帰る。三月三日台湾に旋る。聊か姑蘇の游蹤を記すと云う。
――― 大湖は蒼煙渺靄として天にわたり俯瞰するを得ず・・・・・・山僧茶菓を具え、嚢を開きて詩を示し、我の作る所なりと謂う。予二三首を見るに、皆他人の詩なり。而るに以て自らに與するは、何の心ぞ哉。
1903明治37年2月、日露戦争開戦。
?年~大正5年、 台湾に戻り国語学校で教鞭をとる。
1917大正6年、帰国。大東文化学院の教授。聖心女学院、日本大学文学科、高等師範学校などの教授を歴任。
『日本及日本人』の詩欄選者を担当、かたわら,『斯文』『大正詩文』などに稿を寄せた。雅文会の編集、芸文社顧問。漢詩人・文章家としての名声から選者や編集を頼まれたようだ。
1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾攻撃、対米英宣戦布告する。
1942昭和17年12月24日、死去。80歳。
館森袖海・著書
『先正伝』、『拙存園叢稿』、尾崎秀真と共編『鳥松閣唱和集』など近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読めるものもある。
詩集は未刊。おそらく死去したのが太平洋戦争さなかであり、戦争が終わっても敗戦で、子孫に漢詩集を出す資金も心の余裕もなかったからと察せられる。
参考: 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『日本漢詩鑑賞辞典』猪口篤志1980角川書店/ 『明治漢詩文集 62』1983筑摩書房
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