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2016年7月 9日 (土)

インド仏教哲学、木村泰賢(岩手県)

 とある人物の伝記執筆をしているがなかなか進まない。それに加えてブログ更新もあるのに弱い巨人のテレビ中継、つい見てしまう。また、講座や大学図書館、下手の横好き卓球もあり忙しくボケてる暇がない。そんなこんなでよく出歩くが、電車内で乳母車や抱っこの赤ちゃんをみるとホッ。ニッコリされたら今日はよい日だとうれしくなる。でも、笑わない赤ちゃんもいる。
  子育ての環境は昭和と違って便利になったのに、若いママは何かと多忙、赤ちゃんが笑わなくても気にしない。その赤ちゃんが大人になった時、社会はどんな様相か。その時を想像すると心配になる。
 今でさえ、物は豊になったのに心が追いついていないようで、世間一般尖っている。こうした情況はおそらく、人の情が薄れている証拠。大きくいえば、哲学が顧みられないせか、社会に包容力がなくとげとげしい。と、エラソウに言っても、哲学は難しく手に負えない。でも、難解だからと避けてるのは私ばかりでないよう、哲学はあんまりはやらない。せめて哲学者の一人をと尋ねて、インド仏教哲学者・木村泰賢を知り、可能なら聴講をしたいと思った。
 
        木村 泰賢  (きむらたいけん)
 
 1881明治14年、岩手県岩手郡田頭村(たがしらむら、西根町田頭)、木村亀治の次男として生れ、幼名は二蔵。父が早く死んで母は五人の子どもを抱え困窮、二蔵は大更の工藤寛得の酒屋に小僧奉公に出る。
 1892明治25年4月。郷里の太田小学校を卒業。
 1893明治26年、12歳。みこまれて田頭の曹洞宗・東慈寺住職、村山実定の弟子として養育されることになった。曹洞宗の中学校、さらに進んで東京麻布笄町の高等学院に入学した。ところが、当時の学院長・快天は洋服着用主義者で、泰賢は院長の主義に共鳴し過激な態度をとったので追放された。しかし泰賢は少しもめげず、青山学院の中等部に編入して卒業した。

 1899明治32年6月、住職の実定が遷化(せんげ高僧が死ぬこと)、泰賢は19歳で実定の跡をつぎ東慈寺二十世となり、翌33年、曹洞宗大学(現駒澤大学)に入学。
 1903明治36年7月、東京帝国大学文科に選科生として入学。

 1904明治37年2月、日露戦争開戦。陸軍二等看護卒として招集され*第八師団に配属、砲煙弾雨のなか戦地の野戦病院で傷病兵の看護にあたった。
      *第八師団:管轄は岩手・青森・山形・秋田の4県と宮城県の一部、のち3県。
  泰賢は出征のとき、文庫本の元祖ドイツ出版社のレクラム版『シェークスピア』とドイツ語の本と辞書を携行。従軍中にドイツ書を読みこなすことができるようになった。

 1909明治42年、東京帝国大学文科を卒業。優秀な成績で銀時計を得、特選給費生として大学院に入り、高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)教授のもとでインド哲学を専攻。
 1912大正元年9月、帝国文科大学インド哲学の講師に任命される。
 1914大正3年10月、恩師の高楠教授と共著『印度哲学宗教史』を刊行。未開拓のインド上古思想史の分野を解明。この書で学会における泰賢の地位を確立。
    翌年5月、『印度六派哲学』を刊行、認められて帝国学士院恩賜賞。
 1917大正6年11月、助教授。

 1919大正8年7月~11年5月、インド哲学研究のためヨーロッパに留学。これまでの日本や中国が*小乗だとして軽視していた「阿含教」を研究し、先入観をはなれて新しく整理再組織し、*大乗への発展の跡をたどり、『原始仏教思想論』を著し、研究方法論と成果は名著と評判になった。
   *小乗: 自己の人格の完成のみを目的とした仏教の教え。
   *大乗: 自分一人だけ悟るのではなく、万人を慈悲心をもって救うことを主張し、人間社会の理想的なあり方を教える仏教上の立場。
 1922大正11年、帰朝し、インド哲学第二講座の担任を命ぜられる。
    まもなく、『阿毘達磨論成立の経過に関する研究』を発表。古来難解とされていた小乗阿毘達磨研究に新しい路を開拓しこの学位論文で、文学博士の学位を得た。これは先人未踏の研究であって、本人ももっとも得意とする所であった。42歳。
 1923大正12年3月、教授に昇進。東京帝国大学仏教青年会の創立に尽力。また、反宗教運動に対し反駁につとめた。

 1924大正13年、『解脱への道』一種の仏教修道論を刊行。三篇からなるこの書は、人生は如何に生くべきか、その真相は如何なるものであろうか、を仏教的な見地から平明に、かつ的確に説いたものである。『解脱への道』は、仏教倫理に近代的意義をあたえた研究というより、大衆によびかけたもので、よく大衆の心をとらえた。
 1926大正15年、仏教女子青年会パンフレツト『仏陀の女性観』(仏教女子青年会)。
    月刊誌・実業之日本社『東京』3月号特別記事<至宝と仰がるる人々>で業績を紹介された。他に8名、大矢透・本多光太郎・鈴木梅太郎・石原純・西村真次・野口英世・左右田喜一郎である。泰賢は社会一般からも学識を認められていたのである。

 あるとき、泰賢の自宅にニセの托鉢僧があらわれ、その不徳を戒めながらも喜捨してやり笑いながら見送った。こうした闊達さもあり、門下には雑多な人物が集まってきたが、学問や思想上の議論はしても、個人攻撃は禁じた。
 1929昭和4年、『真空より妙有へ』を出版。『解脱への道』よりもさらに、積極的に現代思潮に呼応して、仏教の真意を説き明かした書。

 1930昭和5年5月16日、突如、狭心症で死去。まだ50歳と若い。
   葬儀は鶴見の総持寺において盛大に営まれ、学界はもちろん一般社会も心から哀惜をそそいだ。東京帝国大学総長の弔辞が姉崎正治博士により代読され、高島米峰はつぎのようにその死を悼んだ。
 ――― がっしりした健康そうな体躯、太くて力強い音声、開けっぴろげで屈託なさそうな態度、快活に笑ってのける無邪気さ・・・・・・ 木村君の後任として誰があるか、あれほどの大才が、そんなに容易に出てくる物ではない。
  業績は『木村泰賢全集』に収められ、明治後半以来の仏教雑誌は研究価値が高く、また泰賢の著書は広く読まれたらしく、東京から近い千葉県成田に「木村泰賢文庫」があり研究に寄与、今なお学界に貢献しているという。著書のいくつかは国会図書館・近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で読むことができる。

   参考: 『岩手の先人100人』/ 『日本英雄伝・第3巻』菊池寛監修1936非凡閣 / 『国語科教授の実際 : 帝国実業読本提要. 巻8』1925冨山房  

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コメント

けやき様
大阪の門田です。ご無沙汰しております。高楠順次郎の名前が出て来ましたので、話題をひとつ。
以前、データをお送りした「門真町史」に、高楠順次郎の下で大正新脩大蔵経の編纂を助けた蓮沼文範についての記述がありましたが、お示しの木村泰賢とこの蓮沼文範との間に接点があったのかが個人的には気になるところです。
文範が上京した時期が今となってはよく分からないのですが、蓮沼家に遺された、1920大正9年の日付のある南條文雄や澤柳政太郎からの書簡、1921大正10年の太田亮からの年賀状のあて先には「市外池袋本村210米山方蓮沼文範」と記されており、遅くともこの頃には東京暮らしを始めていたようです。その後、1936昭和11年の安倍能成からの年賀状、1937昭和12年の小野玄妙からの年賀状のあて先は大阪の住所となっており、この時期には帰阪していたようです。
なので、木村泰賢が助教授になられた頃から亡くなられるまでの間に、何度か廊下ですれ違っていたのでは・・・もしかすると葬儀にも参列していたのでは・・・と想像を膨らましています。
また、天文学をやっていた文範の実弟、蓮沼左千男(恒星社の天文学辞典の記述によると、学科は異なるものの、アニメ「風立ちぬ」の堀越二郎と同学年だったようです)も、東京天文台で地球に接近した惑星エロスの観測で胸を病み、昭和6年に他界するまでの間、東京帝大の内外をうろうろしていたので、蓮沼兄弟そろって木村泰賢と接触していた可能性があります。
なお、この左千男から文範あての葉書も残っていたのですが、そこには、三越の天文博覧会を手伝っているとか、天文台での仕事は多分時間の測定と放送だろう(当時のラジオの時報は東京天文台から放送とのこと)と綴られており、当時の「開明的」な日本の時代感が伝わってきます。
・・・長々と書き連ねてしまいました。次回作、期待しております。

投稿: 門田江平 | 2016年8月15日 (月) 22時23分

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