幕末維新期、殉難の志士・魚住 勤(源次兵衛) (熊本)
リオデジャネイロ・オリンピックと巨人戦中継をみるので忙しい。高校野球もある。甲子園に熊本からは秀岳館が出場、地方大会打率4割を超える打線は評判どおり初戦を打ち勝った。球児に限らず熊本の若者は健児という言葉が似合いそう。熊本健児はお城を見上げて心奮い立たせるだろうに、今のお城はいたましい姿。でも、いつか復興する。再興の参考となりそうな写真が熊本を訪れた時の2007平成19年“築城400年パンフレット”に載っていた。
【1875明治8年頃、焼失前の熊本城。大天守右下に鎮台の門】。それにちょうどいい説明が次の日本の名勝【熊本城(肥後)】
――― 慶長年中、有名なる加藤清正の築きしものにて、現今第六師団(熊本鎮台)の所在地たり。西南の役に、当時の楼櫓多く焼失せりと雖も、城濠其の他の規模は、依然として当年の雄大を想はしむ。特に城の中央に聳えゆる天守閣は、巍然として天を摩し、鬼将軍の稜々たる気節を表するものの如し(『日本の名勝』瀬川光行編1900史伝史伝編纂所)。
魚住 勤 (源次兵衛)
1817文化14年生まれ。名ははじめ良之のち真卿、さらに勤と改める。熊本藩士。
幼くして学問を好み、成長して勤王党の林有通に入門。漢籍を学び、皇典(国体の意義・古典・礼節)を研究し復古の志があった。
ときに幕末の肥後藩内は、およそ三党鼎立の形になっていた。一は藩校時習館を中心に士流の半ばを擁する学校党の一団。二は実学党で文字章句にこだわる学風にあきたらず別に一派を形成する横井小楠らの一派。三は勤王党、林有通門下の勤王志士の一団。
なお、藩主細川氏は丹後15万石から豊前35万石次いで肥後54万石の大諸侯に封ぜられ、藩祖以来、徳川氏に恩義があった。そのため幕末変乱の際、優柔不断で目覚ましい行動を起こせないのも止むを得ない所があった。
1853嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍監4隻を率いて浦賀に来航。魚住はたまたま江戸に来ていたので、藩命により警備についた。同年7月にはロシアのプチャーチンが長崎に来航するなど当時は外国船がしきりにやってきた。
魚住はひそかに同志と攘夷の計画をたて、それには先ず、兵器や戦について研究しなければならないと考えた。操船術を池辺常春に学び、砲術を高島秋帆について研修、大いに得るところがあった。
1860万延元年、幕府が日米修好通商条約批准のため、遣米使節を咸臨丸(艦長・勝海舟)で派遣することになった。それを知った魚住は一行中の同志に随行してアメリカの事情を探ろうとして願い出たが、許されなかった。しかし、魚住はあきらめず藩内を説くいてまわり理解する藩士もでてきた。
1862文久2年、坂下門外の変。老中安藤信正が水戸浪士に襲われ負傷。薩摩の島津久光、藩兵1000人を率いて入京、朝廷に建議など勤王論がさかんになって魚住は行動をおこす。
宮部・増実・松村・大成らと同志を糾合、八代に赴いて国老・松井に勤王の志を説いた。そして熊本に帰るや直ちに米田・小笠原の国老に説いてついに藩主に面謁、親しく意見を述べた。また、同志と上書して大義を述べるなど奔走尽力して藩論を勤王にまとめ、熊本藩主の弟、細川護美が京に上ることになり随従することになった。魚住は護美に従い上洛すると、公家や有志の間を奔走、王事に努めた。
1864元治元年、禁門の変。長州藩兵が京都で幕府軍と交戦、長州戦争がおこった。魚住は長州を助けようとしたが、藩論は幕府の命に従うため兵を京にすすめた。そのため魚住は俗論派に忌まれ、父と共に自宅に禁錮となり幽閉された。
1867慶応3年12月、藩主細川護美の世子護久は京に上り禁闕守衛の任にあたることになり、魚住はこれに従った。しかし、鶴崎というところにさしかかり熊本から急使が追いついてきて言うに
「藩議まさに幕府をたすくるに決す。世子すみやかに帰熊すべし」という。魚住はこれに
「今や国艱難に逢い・・・・・・堂堂たる雄藩の世子、まさに兵を擁していったん国を出て、途中遅疑して大儀に遅れ給はば、臣子の道すでに失す。何の顔して天下に対せむや」。
世子はその言葉に決然として京に上ったが、京都在住の藩士も佐幕説を唱えるものがあったため、すぐには参内することができなかった。
1868慶応4年、魚住は藩論を排して護久をうながし、ついに参内に成功した。
「維新の初めにあたり、我が藩の大義を誤らざりしもの、実に魚住勤の功多きに居ると謂う可し」。『殉難十六志士略伝』著者の言である。
1868明治元年、明治維新後、祠官(神主)となる。
1872明治5年、教導職となる。
教導職: 国民教化ににあたらせることを目的に教部省におかれた役職。神官・僧侶・国学者・儒者を任命し敬神愛国、天理人道、皇上奉戴の三条の教憲を報じて布教にあたらせた。1884明治17年廃止。
1877明治10年、西南戦争。魚住知己・縁者、西郷軍と政府軍、どちらに組したろうか。
熊本城(鎮台)内では、佐賀の乱を鎮圧した司令長官谷干城少将が籠城準備を急ぎ、ほぼ完了の矢先、天守閣と書院を結ぶ渡り廊下から出火。城内の火事は食料を焼いたものの弾薬と酒は無事だったが城外の住民は焼け出された。それというのも政府軍は籠城準備として市民に通達したものの、熊本城付近の家々を焼払ったからである。
西南の戦いはこの熊本城からはじまるが、これより早く熊本県士族の池辺吉十郎(子は明治のジャーナリスト池辺三山)は、佐々友房(のち政治家)と、肥後の子弟を率いて薩摩に入った。池辺は村田新八と話合い、西郷の決起が伝わると西郷軍に呼応する。西郷軍はこのような士族たちを取込みながら鹿児島を飛出し、一目散に熊本へ押寄せたのである。
1880明治13年9月16日、没す。63歳。
遺詠
大君の御楯になれとわが身をは 皇産霊の神のつくりおきけむ
沓冠さかしまにおく世の中に いつまてかくてものおもふらむ
魚住勤のように確乎たる意志・志の主はともかく、勤王・佐幕に揺れる藩論の間で悩み揺れ、結果、藩が勤王側についたとしても明治を前に斃れた士も少なくない。佐幕派に肩入れする筆者であるがそうした士には同情を惜しまない。魚住は明治の世を13年余り生きたが、従四位を贈られたのは死後。日露戦争を前に日英同盟が結ばれた1902明治35年である。
参考: 『殉難十六志士略伝』河島豊太郎1918 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 『日本史年表』1990岩波書店
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