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2016年8月27日 (土)

恋路の坂をゆく激情の歌人、原阿佐緒(宮城県)

 2016夏、リオデジャネイロ・オリンピックで日本人選手が大活躍、朝に晩にテレビ観戦。心は熱くとも、一とき暑さを忘れ気がつけば夏も終盤。サンマの記事に秋近し。
 「岩手県大船渡市や宮城県気仙沼市で24日、本州で初めてのサンマが水揚げされた。でも東日本大震災で被災、昨年の全国水揚げ量は前年から半減して過去最低。水産関係者は大量を祈願して、道半ばの復興を後押(毎日新聞・雑記帳、野崎勲)」
 サンマと言えば塩焼きで充分おいしいが、文学好きは青い蜜柑の酸味がほしいかも。
   あはれ 秋風よ 情けあらば 伝へてよ  ――男ありて 今日の夕餉にひとり さんまを食ひて 思ひにふける と。(文末に「秋刀魚の歌」)
 庶民のおかずサンマ、文学者の食卓にのぼれば陰影濃い詩になる。詩歌の作者、心は微妙で大胆、まして多感な若い女性は。その一人原阿佐緒は、抑えようもなく溢れる激情を歌いあげた。生身の感情と日常の現実、その間をどのように行き来していたのか。

      原 阿佐緒 (あさお)

 1888明治21年6月1日、宮城県黒川郡床村45番地で生まれる。本名、あさを。
   父・原幸松、母・しげの一人娘。
  ?年 宮城県立高等女学校を病気のため中退。
 1904明治37年、上京。圭文女子美術学校日本画科に入学。
   *下中弥三郎から和歌を、小原要逸から英語と美術史を学ぶ。まもなく、妻子ある小原との恋愛に悩み、妊娠中の身で自殺未遂。
      *下中弥三郎: 明治~昭和期の教育運動家、出版事業家。平凡社を創設、大百科事典ほか膨大な事典を出版、民衆教育の貢献につとめた。

 1907明治40年、長男・千秋を出産した後に小原と別れる。この頃より作歌に熱中。
 1908明治41年、作歌を『女子文壇』に投稿。
 1909明治42年、与謝野晶子に認められて、「新詩社」に入る。
     『スバル』『女子文壇』『我等』『青鞜』などに発表。三ヶ島葭子ら歌人との交流深まる。
 1913大正2年、処女歌集『涙痕』(るいこん)刊行。与謝野晶子の序、吉井勇の序歌がある。419首は、恋愛を中心とした多感な若い女性の涙のあとをとどめる。

   捨つといふ すさまじきことするまえに 毒を盛れかし 君思ふ子に
 抑えようもなく溢れる激情を歌い上げる。思いもよらなかった捨てられるということ、それは残酷無比な凄まじいこと。捨てる前に、いっそ毒をもってほしいというのである。
 1914大正3年、庄子勇と結婚し、次男・保美を出産。

 1916大正5年11月、歌集『白木槿』(しろむくげ)刊行。
   この年、「アララギ」に入会。斎藤茂吉、ついで島木赤彦の指導をうけた。愛をめぐる情感あふれる作風に特色があり、今井邦子・杉浦翠子らとともに、アララギ女流として注目された。
   『白木槿』現実のくのうをに裏付けられた抒情歌風は、実感として読者に感銘を与える。

 1917大正6年、石原純(いしはらあつし)と知りあう。石原純は、東北帝国大学の理論物理学者で「相対性原理」の最初の紹介者として著名。また、歌歴においても『馬酔木』以来の根岸派歌人として知られる。
Photo_2
  写真: 「みやぎ県政だより 2012.4.1」 <宿場町の面影を残す街並みをぶらり散策>。 
なお、地図③<恋路の坂>の並びにある「内ヶ崎作三郎生誕地」関連記事“大正5年の東北学事視察、内ヶ崎作三郎・高杉瀧蔵”  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/07/post-94e8.html

 1919大正8年、離婚。幼子を連れて帰郷、しばらく生家で過ごす。

   呼小鳥 今日もかも鳴く みちのくの狭霧の山の その木ふかみに
  阿佐緒の夫は紅灯の巷に耽溺して帰らない日が続いた。恨みはしなかったが、老いた母とわが子二人、4人で東北の厳しい冬を過ごさなければならなかった。

 1921大正10年、新聞に恋愛問題が発表され世間に知れる。石原は退職、二人で千葉県保田で同居生活を送る。この年10月、現実感を加えた『死をみつめて』刊行。石原との問題でアララギを去らざるを得なくなる。

   やうやくに 桑やり終えて 襷ながらすわる 夜ふけを こほろぎ鳴くも
 養蚕の激しい労働を夜ふけに終わり、たすき掛けのまま、ほっとして疲れた体を休めている。ふといままで気付かなかったコオロギを聞きとめているという歌。

   きはまりし いのちの果てを 相遠く 守りあひつつ 生くべきものか
 互いに二人の思う心の極まった果て、互いにそれ以上は近寄らずに遠くから、見守りながら生きねばならないものなのか。苦悩と悲嘆の交錯があり、当時、評判になった石原との恋愛の苦しみの作。

 1922大正11年、石原純、唯一の歌集『靉日』(あいじつ)刊行。

   停車場に汽車着きにければ 半鐘の合図がさみしく 曠野になるも
 物理学研究のため明治末期ドイツ・オーストリアに留学、シベリア経由の往路で詠んだ。

 1922年11月、アインシュタイン来日。日本への船中でノーベル賞受賞の知らせを受ける。12月2日には仙台を訪れ、翌日、超満員の聴衆を前にして相対性理論の一般向け講演を行いました。アインシュタインの日本への招待は、当時の京都帝国大学教授・西田幾太郎と東北帝国大学教授・石原純の発案によるといいます。石原純は原阿佐緒との不倫がマスコミを賑わせアインシュタイン来日の前年に大学を去っています。通訳は東北帝国大学教授愛知敬一でした。仙台以外では石原純が通訳しましたから、辞職のわだかまりがあったのかもしれません。
  (「アインシュタイン、物理学、図書館」東北大学付属図書館・北青葉山分館長・倉本義夫)

 1924大正13年、阿佐緒は創刊された『日光』の同人として加わり、石原も「短歌の形式を論ず」を掲載、新短歌(口語自由律)への転換を宣言。

 1928昭和3年、40歳。このころ石原純と別れ、酒場を開いたりして転落の道をたどる。この年10月、『うす雲』を刊行したが、それ以後、作家活動を停止して歌壇にあらわれることはなかった。

 1969昭和44年2月21日、死去。 81歳。
   阿佐緒の昭和、40年余もの長い間、どのように暮らしていたのだろう。平凡な主婦を不満とも思わず呑気に過ごしてきた筆者には、波乱の人生の歩き方、終え方、どちらの心情も見当がつかない。阿佐緒の場合、良くも悪くも華やかな前半生で燃え尽き、ひっそり閑としていたのだろうか。

   参考: 『現代女性文学事典』村松定孝・渡辺澄子1990東京堂出版/ 『現代短歌鑑賞辞典』窪田章一郎1978東京堂出版/ 『日本文学鑑賞辞典・近代編』吉田精一1989東京堂出版/ 『現代日本文学大事典』1965明治書院

                       **********

     秋刀魚の歌      佐藤春夫

  あはれ
  秋風よ情けあらば伝へてよ
  ―――男ありて
  今日の夕餉に ひとり
  さんまを食(くら)ひて
  思ひにふける と。

  さんま、さんま
  そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
  さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
  そのならひをあやしみなつかしみて 女は
  いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
  あはれ、人に捨てられんとする人妻と
  妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
  愛うすき父を持ちし女の児は
  小さき箸をあやつりなやみつつ
  父ならぬ男にさんまの腹をくれむと言ふにあらずや。

  あはれ
  秋風よ
  汝こそ見つらめ
  世のつねならぬかの団欒(まどい)を。
  いかに
  秋風よ
  いとせめて
  證(あかし)せよ、かの一ときの団欒ゆめに非ず と。

  あはれ
  秋風よ
  情けあらば伝へてよ、
  夫に去られざりし妻と
  父を失はざりし幼児とに
  伝へてよ
  ―――男ありて
  今日の夕餉に ひとり
  さんまを食ひて
  涙ながす、と。

  さんま、さんま、
  さんま苦いか塩つぱいか。
  そが上に熱き涙をしたたらせて
  さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
  あわれ
  げにそは問はまほしくをかし。
                     佐藤春夫詩集「我が一九二二年」より

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