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2016年8月 6日 (土)

倒幕に奔走のち会輔社を再興、小保内定身(岩手県二戸市)

 何気なくテレビをみていたら、モトクロス競技大会。バイクが凸凹道を疾走、空高くジャンプ!見るだけでもヒヤヒアなのに、ヘルメットを脱ぐと明るく可愛いい笑顔、何と女子高校生。彼女は子どもの頃からバイクに親しんでいたが、小学6年生で東日本大震災に遭い乗るのをやめたそう。家族の応援でまた乗るようになり競技会に参加したのだ。それにしても、大震災時、小学生の子が高校生とは・・・・・・歳月の速さ、被災地の頑張り、そして復興の遅さを感じた。
 競技会場の山陸沿岸の大槌町から、広~い岩手県をずうっと北へ上がると二戸郡がある。そこの福岡町(金田一村と合併して二戸市)の神職の家に生まれた小保内定身の波瀾の一生を紹介したい。

        小保内 定身 (おぼない さだみ)
 
 1834天保5年2月、二戸郡福岡(二戸市)の代々の神職、小保内安定の長男に生まれる。幼名を定三、通称を宮司(みやじ)。
 父の安定(通称、孫陸・常陸)は“鎮守の森”呑香稲荷神社の神職。国学の造詣が深い。
 1856安政3年、江戸へ出て、南部藩儒者・*那珂通高(江幡五郎)の塾、さらに儒学者・芳野金陵に漢学を学んだ。また、国学者・平田銕胤(かねたね、平田篤胤の女婿)に学んだ。
    “東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/02/post-fbfd.html

 これより3年前、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、国内騒然としていた。尊王論がみなぎり革新の気に燃えた小保内は、攘夷運動に走り長州藩士久坂玄瑞らと親交を結んだ。王政維新の風雲に際し倒幕へと傾いた小保内は那珂に相談。すると、「青年の空論」と自重をうながされた。そこで小保内は、南部藩執政・東次郎中務を動かそうと帰郷した。

 1858安政5年、小保内の郷里では、吉田松陰の後継者と目されていた英傑、長州萩藩の小倉謙作(鯤堂)が暗殺の風評に逃れ小保内定身を頼り、定身の父・安定の元に身を寄せていた。
 小倉は、小保内の父らと共に士族の青年をあつめ結社、吉田松陰の松下村塾にならって「会輔社」を組織、青年らに四書五経を講じた。会輔社の由来は、論語の「友を会ゆるに仁を以てし、友を輔けるに仁を以てす」である。
 1859安政6年、安政の大獄があり、吉田松陰刑死。報せを聞いた小倉は嘆きつつ北海道・松前に赴く。小保内定身は思うところを実行しようとして帰郷する。

 1860万延元年春、小保内はともあれ会輔社を引き継いた。そこへ、水戸学の大家・吉田房五郎が訪れたので講師に迎えた。このころ、水戸や相馬などに赴き志士と交わっていた田中館礼之助(*田中館愛橘の父)が帰郷、吉田房五郎らとともに会輔社の青年を教え激励した。吉田は経史や兵法を教えていたが三年目の春、江戸に帰っていった。
 小保内は、松下村塾・水戸学・*相馬大作らの精神を融合、独特の国粋思想としたのである。  
      “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中館愛橘(岩手県)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html

  *相馬大作: 文末に転載、二戸市HP参照。

 1863文久3年、新たに会輔社員子弟のための“少年社”を設け、「修身治国平天下」を根本方針に訓育。
    また、好学の徒のために“稲荷文庫”を併設した。図書購入の費用を賄うため「稲荷無尽講」を考えだし、江戸の友人を通じ本を買い入れた。時には馬で運んだ大部の書籍は、「大日本史」「古事記伝」「折りたく柴の記」ほか、水戸講道館や藤田東湖の書、松下村塾の教書など和漢数千巻を備え、藩内随一の公開図書館となった。
  幕末の激動は江戸から遠く離れた東北の地も激動に巻き込まずにはいない。ところが、そういう時こそ世のためにも学問をと、書籍を大量に購入した人物がいて費用を負担した人々がいた。学者も馬で乗り付け、借りた書を教材にもしたという。図書館にかけた二戸の人々の熱意はきっと今も受け継がれている。

 ところで小保内の帰郷の目的、南部藩執政・東次郎中務担ぎ出しは、東の性急な藩政改革論が疑念をもたせ、不敬のかどで家格引き下げ・謹慎閉居を命ぜられ失敗に終わった。小保内の身も危ういところだった。
 1868明治元年、戊辰戦争では薩長側に加わろうとしたが小身数十人だけで失敗。また、奥羽列藩同盟に反対したが藩主父子の帰順で失敗した。同年10月、東次郎に従い宮古より函館に航し、11月には正義勤皇の士の一人として、藩主らの東京護送に随従を許され、大納言・岩倉具視に藩主父子の無実を直訴しようとしたが果たさなかった。

 1870明治3年2月、廃藩置県後、小保内は盛岡県権大属となったが4月20日免官。翌日、少属に、7月には史生となって高い地位から低くなり間もなく免官となる。9月、再び出仕して東京在勤となり少属を以て遇せられ、大阪に出張して東大参事の意を受け奔走したが、翌4年、退官。こののち再び仕官しなかった。
   小保内は辞職後、廃藩で禄を離れた士族の授産に会輔社員を動かし桑や養蚕、陸稲・こうぞ(和紙の原料)・綿羊など農畜産振興に努める。

 1874明治7年、琉球島民の殺害を理由に台湾出兵となるや、東次郎は都督・西郷従道と連絡、小保内もまた郷里に於いて会輔社生を糾合し、社員15人と従軍を志願したが、問題が解決したので、実行に至らなかった。
 1877明治10年、西南戦争。小保内は那珂通高から西郷征伐の書を受けたが、「西郷と他の異見が原因で勤王と無関係」だとして動かなかった。
 1878明治11年、福岡に私学校を設立し子弟を教育した。
 1880明治13年、国会期成同盟が大阪で開催、小保内は会輔社員を出席させ。翌14年、同盟会が自由党に改組され、その主義綱領に皇室に関する事項がないとして脱党。

 1882明治15年2月、会輔社をあらため政社とする。
      会輔社は、教育・政治・勧業の三部門に分かれる 。小保内の甥・蛇沼政恒が社員の拠出金で中国産綿羊25頭を買い、牧羊教師を伴い帰郷、社員交互に飼養した。さらに官営勧業寮から30頭を貸与され、試験牧羊場にあてた。この間に明治天皇の東北巡遊があり、蛇沼と小保内は綿羊と小保内の母が織った毛布を御覧に供した。しかし、牧羊事業は失敗した。
 1883明治16年、母が病死。小保内は格好の天然石を探して邸に運ばせ、筆をとって墓碑銘を書き、石工から道具を借り自ら碑銘を刻んだ。そして刻み終わった7月13日、他界。享年49歳。

   参考: 『興亜の礎石:近世尊皇興亜先覚者列伝』1925大政翼賛会岩手県支部/ 『岩手の先人100人』1992岩手日報社出版部/ 『九戸戦史』岩館武敏1907九皐堂

   参照: 二戸市商工会  http://www.shokokai.com/ninohe/kankou/kunohejyou/rekisi.html 

 呑香稲荷神社境内に萱ぶきの小さな茶室、槻陰舎がひっそりと建っています。この社屋が現在も残る槻陰舎なのです。
 当時の地方には奇跡とも思える2千余冊の蔵書を備えた稲荷文庫と相まって、青森、秋田方面からも多くの志ある若者が集い、東北の鹿児島と称されるようになり、やがてその土壌が世界的な物理学者田中館愛橘博士や初の民選知事國分謙吉翁など多くの偉人の輩出の礎となったのです。
 また、これより先、江戸の平山行蔵の四天王と呼ばれた相馬大作は北辺のロシアに対する防備の重要性を説き、演武場を開き門弟200余人に文武を教授しています。
 津軽候の驕慢に義憤を覚え、矢立峠に要撃事件を起こし、後に江戸で捕らえられ処刑されましたが、その気概は今も脈々として二戸の人たちに受け継がれています。

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