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2016年8月20日 (土)

道の駅みさわ・斗南藩観光村、広沢安任 (青森県・福島県)

 2016.8.15終戦の日。 阪神甲子園球場で埼玉県の花咲徳栄(はなさきとくはる)高校球児が「野球できる平和に感謝」しつつ黙祷。同日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、天皇陛下のおことばがあった。おそれながら、心のこもったおことばで空襲の東京を逃げ回った亡き両親が思い出された。筆者は孫が中学・高校生という年配だが戦争の記憶はない。しかし大変だった事を聞いて育ち、「戦争ダメ」は根付いている。ただ、子や孫にその思いがきちんと伝わっているかどうか。この先、どんなふうでも戦災を知る世代がいなくなったら世の中どうなる。
 ところで、先の戦争というと、たいてい第二次世界大戦/太平洋戦争を思うが、会津では戊辰戦争をさす人もいるそう。戊辰の敗戦後、賊軍といわれ艱難辛苦が続いた歴史を思えば無理もない。しかしそうした中で、逆境を乗りこえ偉業をなし遂げた人も少なくない。新聞記事を読み、その一人、広沢安任を思った。  Photo



 ――― 青森県三沢市「道の駅みさわ 斗南藩記念観光村」が、乗馬や餌やりで馬と触れ合える「三沢ホースパーク」がオープンし、家族連れやカップルでにぎわっている。
 明治初期に日本初の民間洋式牧場が開かれた地でもある三沢。パークでは、いずれは高い技術を要する流鏑馬(やぶさめ)の訓練を行う構想もあるといい、「馬文化」再出発の始発駅にしたい考えだ(「雑記帳」毎日新聞・宮城裕也)。

 筆者は2004平成16年8月16日、下北半島を訪れ斗南藩の史蹟を巡り歩き、「斗南藩記念観光村」にも行った。八戸駅からバスに乗車したが間もなく乗客は私たち夫婦のみになり、一時間もかかってやっとついた。ところが、お盆休みらしく人気がなく閑散、先人記念館も休館。しかし、帰ろうにもバスは一時間に一本。夏の陽差しのなか、夫と顔見合わせ為す事もなく待ったのが思い出される。記事によると、今は賑わってそうでよかった。

        広沢 安任 (ひろさわ やすとう)

Photo_2 1830天保元年に生まれる。
 1858安政5年、29歳。藩の推薦により江戸・昌平黌に学び、やがて舎長を勤める。
 1862文久2年、幕府とロシアの国際談判に糟屋筑後守の随員として箱館に同行。往復の間、斗南領の地勢、風俗を観察する。これが、のちの斗南北遷説主張の基となる。
 1865慶応元年、京都に赴く、このとき甥の広沢安宅、随行。
 1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争
 1869明治2年、会津藩松平家の家名再興認められ、陸奥国斗南藩3万石。斗南藩権大参事・山川浩、少参事は広沢安任ほか3名。翌年から藩士の移住始まる。

 1871明治4年、旧藩士の救済と原野の開拓のため、広沢ら、ルセー、マキノンの二人を雇い入れ、谷地頭に洋式牧場を開設を願いでて許可される。
 1891明治24年、広沢安任、61歳で没。
   牧場は養子の広沢弁二が継いで経営、奥羽六県産馬会を創立。

   参考: 『北辺に生きる会津藩』2008 会津武家屋敷文化財管理室

      **********

     北辺の洋式牧場

 会津の移封地を決めるとき、猪苗代か陸奥か意向を聞かれ、旧会津藩は陸奥(斗南)を選んだ。猪苗代は旧領地で狭く藩士を養えないと考え、また会津落城後、人心荒廃、大規模な世直し一揆もあり、藩は権威を失って治める自信もなかった。
 斗南を選んだ首脳の一人広沢安任は、幕末の京で活躍し交際が広く政府内にも知己があり、進取の気性に富んだ人物であった。戊辰戦争に敗れ藩主以下江戸を去り会津に帰ったが、広沢は江戸に残り単身で西軍総督府に乗り込んで、
「諸外国が虎視眈々と日本の隙をねらっている。なのに兄弟垣にせめぐ戦いをしている場合ではない」と兵をおさめるように訴えて、捕らえられ斬罪がきまった。しかし命拾いをした。イギリス公使パークスの下で働いていたアーネスト・サトウが木戸孝允に口添えをしてくれ斬罪を免れ監禁となった。広沢は外国人とも交際があり、早くから開港説をとっていた。
 かつて広沢は幕府とロシアの国際談判に随行し、往復の間に
「陸奥の国は広大にして開発の望みあり」と考えた。山川大蔵もこれに賛成し、二人の強引な推進もあって会津藩は斗南に移ったのである。しかし移住後の生活はあまりにも困難であった。やがて廃藩置県となると藩主、重役ら多くが、また山川までもがこの地を去ったが、広沢は残留した。
 広沢は斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東、谷地頭に酪農主義農場の開拓をはじめた。一八七二(明治五)年五月、広沢牧場を開業し五ヵ年計画で事業を推進することになった。広沢は京を東奔西走していたこともあり新政府に知人が多く、開墾資金を借入れるのに役立った。のちに官有地の払下げや資金の貸与を願い出、これに成功している。四朗は広沢の小伝で広沢がつねに
「松方伯・谷将軍・福沢先生・富田・渋沢の諸名士と議論をしていた」と紹介している。

 広沢の牧場はイギリス人技師ルセーとマキノンの二人を雇い、彼らの指導のもと農具などをイギリスから輸入することになった。その技師二人を通訳兼案内人として連れてきたのが柴四朗である。この三人に旧会津藩士の佐久起四郎がつきそい陸路を二十日余りで青森三沢の牧場に着いた。
 開墾村、広沢牧場は現在、道の駅みさわ「斗南藩観光村」として再現されている。JR三沢駅からバスに乗り、三沢空港の前を過ぎてなおも一時間近く走り続けてやっと着いたが、記念館は休館だった。しかし、戸外に復元された当時イギリス人が住んだ家や村人の小屋は見学できた。
 技師の一人マキノンはスコットランド出身、農学校で畜産学を修めた勤勉な農夫であったというが、御雇い外国人の二人がこんな小さな家で、下北の冬に耐えて働いたのかと感心した。また粗末な小屋をみて開墾の厳しさ、困難が思われた。
 それにしても、バスが町中を抜けると道は何処までもまっすぐで人家は見あたらず、まるで原野を行くようだった。視界が開けていいが冬は吹きさらしで寒さは厳しいだろう。夏のやませといい、農耕に厳しい環境のようだ。明治初年は未だまだ交通が不便でもっと大変だったろう。ここまで徒歩で来るのは容易でなく、ましてこの地に骨を埋めるにはよほどの覚悟がいったはずである。
    (中略)
 牧場を開設して四年、明治天皇の地方巡幸、視察があり広沢が説明にあたった。このとき大久保利通が広沢に新政府への出仕を誘ったが広沢は
「会津藩は亡国である。義に殉じていったんは死んだものである。野にあって国家につくす」といった。その言葉どおり新政府に仕えず牧老人として生涯を閉じる。
 なお、天皇巡幸は当時の政府の威信をかけた大事業であり、地方にとってもたとえば青森県にとっては巡幸を転機に「北奥の開化」に弾みをつけようという意図もあった。広沢牧場を視察した一八七六(明治九)年の随行員は岩倉具視以下二三〇余人であった。二回目が明治十四年でこのとき政変があった。
      (増補版『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』人名索引付き2018 より)Photo

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