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2016年9月 3日 (土)

ボルドー葡萄酒に負けない酒っこを、国分謙吉 (岩手県)

 リオ五輪。さまざまな競技が注目を集めたが、卓球の試合に見入った人も多そう。あわせて熱闘の舞台、卓球台も人目をひいた。台上の青色がきれい、木製 字型カーブを描く脚部がカッコよかった。卓球台は日本製、木材は東日本大震災で被災した岩手県宮古市産のブナ材。製作したメーカーは、「日本らしさを探求した結果、木の脚に行き着いた。被災地の役に立ちたい思いもあった」(2016.8.30毎日・永田晶子)。
 その東日本に大台風10号が襲来。なかでも北海道と岩手県の被害が最もひどく、行方不明者や死者もでている。どれほど科学が発達しても自然の脅威に人間は無力、恨むしかないのかと虚しくなる。しかし、被災したらそんな事言う隙もなく避難しなければ危ない。被害の後片付けも大変、酷な仕事がある。どうか、一日でも早い復旧を、願うばかりです。
 およそ70年前、カスリン(キャスリーン)台風が岩手県を襲った。惨状を視察した岩手県知事、家や田畑を流されなすすべもなく茫然とする農民を前に、「ボルドーのぶどう酒に負けない酒っこ」を作ろうと励ました。農政指導者、国分謙吉である。

         国分 謙吉
Photo
 1878明治11年2月3日、岩手県二戸郡福岡村下川又(二戸市)で生まれる。父は旧盛岡藩士・国分喜惣治、母・ミセの三男。幼名は小八郎。
   学問好きな父の方針により、学齢に達する前に福岡尋常小学校入学するも教室を抜出し遊び疲れることもあり1年で落第。
 1888明治21年、福岡尋常小学校に4年間通学。卒業後、父の方針により泉山銀行へ丁稚奉公。昼の給仕として雑役をこなし、夜は呉服店の仕事を手伝い、人が寝静まると蠟燭の灯りをたよりに農業書などを読んだ。
   座右銘はワシントンの
    「農業ハ 民業中最ク 有益ナル ナリ

 1893明治26年、九戸城跡地に「私立国分農事試験場」を創立。小作人への経営指導や優良種苗の無料配布などを行った。

  1917大正6年、蚕種・種苗の生産販売、農薬・農機具の販売を営業とする「岩手蚕種(現、岩手農蚕)株式会社」を岩手県の支援を受けて設立し、社長に就任。
 1925大正14年、岩手郡滝沢村(滝沢市)に「国分農場」設立。
 1932昭和8年、「岩手農政社」を組織し農畜一体をとなえ運動を展開していく。
   ?年、   岩手県会議員。

 1947昭和22年4月5日、第一回統一地方選挙岩手県知事に当選。それまで都道府県知事は国から派遣された内務官僚が務めていた。国分は選挙で選ばれた初の知事。就任の挨拶で「岩手は独立する。もう中央の言うことは聞かない。」と宣言、喝采を浴びた。
 初当選した9月、カスリーン台風が襲来、川が氾濫、大迫の農地は濁流に流された。麦や大豆などを栽培するだけだった貧しい農村。視察で訪れた国分は、周囲の傾斜地や石灰質の土壌を見て、渡仏経験もないのに「さながらボルドーの地に似たり」と、葡萄栽培を導入したのだ。

 1950昭和25年、大迫葡萄試験地が整備された。ところが、資材がなく稲わらをひも代わりにし、リンゴ用の噴霧器で農薬をかけた。長野などの先進地で学んだ県職員が指導した。最初の3年ほどは粒も小さく甘みも少ない出来損ないばかり。出荷するのに沿岸の魚市場から譲り受けた木箱を使い、「大迫のブドウは魚臭い」とばかにされたこともあったが、「夢があったから頑張れた」。栽培から約10年、軌道に乗り、現在では1房5千円もする生食用高級ブドウ、ワイン専用種も栽培し、国内外のコンクールで数々の賞を授賞するまでに成長した。
  (伝える生きる・立ち向かう人々【岩手日報WebNews】2015.4.25)
  (まちの話題NEWS39国分謙吉翁の業績に感謝して「広報はなまき.(47)」花巻市総務企画部広聴広報課2008.1.15)

 1948昭和23年、前年に続きアイオン台風が上陸。沿岸部に深刻な被害が出たため復旧に努めた。戦時中、木の伐採が過ぎ、県内各地では水害が多発、その復旧にも取り組んだ。
 1951昭和26年4月30日、第二回地方統一選挙にも当選。昭和30年まで岩手県知事を2期つとめる。

 1952昭和27年9月、二戸郡青年農会を創立。郡内を遊説して会員を募集、幹事になって郡内の農事統計調査を事業をしたり、会員を集めて勉強させた。
 1954昭和29年、第一回農産品評会を開く。農閑期を利用して農業幻灯会を催すなど、さまざまな手段で農業の啓発指導につとめた。
     国分は方言のズーズー弁を隠さずに執務に臨み、農民知事と親しまれた。

 1916大正5年、岩手県農会特別議員。農会は農事改良をめざす自治団体。
     二戸郡農会長・国分謙吉、副会長・下斗米常直。国分は農業補習教育の必要を唱えるばかりでなく、当局にしばしば建言。施設、学校園が設置されると、各小学校に種苗を配布、また麦作りを奨励した。

   ところで、これまでは米・麦・豆など雑多な農作物を植えていたので、国分は、福岡町字城ノ内の所有畑一反歩を利用して、穀菽(穀物と大豆の総称)蔬菜(野菜・青物)を試作、次第に規模を拡張しやがて郡の事業となった。 本場を城ヵ内、支場を石切村字栃の水と川原、そのほか山林を開墾して果樹園とした。試作物は連年の成績により良い物は、郡内に無料で配布をして、良種の選択耕種の改良につくした。その中でも、麦や大豆の品位が向上した。
   また、小作人にも良い種を分け与え改善普及に努めたばかりか、県内外に赴かせ見学をさせた。更に農業図書・農機具を購入して、小作人の子弟や一般の求めにも応じて観覧させ、知識の増進を図った。読書家として知られ蔵書は約2万冊に及んだ。

 1958昭和33年11月24日、80歳で死去。
    その生涯は、地方農業改良のため日数と費用を惜しまず、私財をなげうって率先誘導の任に当たり躬行実践一意努力し、農業の発達に益するところ大であった。なお、高村光太郎の詩「岩手の人」のモデルといわれている。
 遺髪を納めた追悼碑が、市内八幡下の祖霊社に田中館愛橘の墓と並んでっている(岩手県二戸市 二戸の先人)。

   参考: 『全国篤農家列伝』1910愛知県農会 / 『巌手名鑑・大典記念』1916巌手県実業青年倶楽部 / ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/

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