三春藩もつらいよ、秋田静臥(福島県)
東日本大震災から5年半になるが、福島県は震災と原発事故の爪痕が深く、今も9万人近くが避難しているという。福島県の地図を開くと、まず猪苗代湖が目に入る。猪苗代湖畔を新潟県・新津へ向かう鉄道が磐越西線、反対に、郡山から太平洋岸にレールが延びているのが磐越東線。
江戸期、現在の磐越西線が走る側に会津藩、磐越東線が走る側に三春藩があった。両藩とも幕末の激動期、たいへん困難で酷な状況に陥った。
戊辰戦争がはじまると三春藩はいったん奥羽越列藩同盟に加わるが、同盟軍の敗色が濃くなるなか、長州・土佐陣に帰順し降伏。その後、会津攻撃の先導もつとめる。このとき、藩政を執ったのが家老の秋田静臥、50歳のときである。
秋田 静臥 (あきたせいが)
秋田家は古代以来の系譜を誇る一族。伝承では、古代陸奥国俘囚の長であった安倍貞任を先祖とする。中世には、今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏とし、津軽十三湊(青森県北津軽郡市浦町付近)を本拠とする活発な交易活動で知られていた。その後一族は出羽国北部(現在の秋田市周辺)に本拠地を移す。戦国時代、秋田氏は織田信長と音信あり、豊臣秀吉の全国統一時に支配下に入った。1600慶長5年の関ヶ原合戦では徳川方についた。2年後、常陸国宍戸に国替となり、さらに1645正保2年に陸奥国三春に移り、明治維新まで藩主として君臨した。
(「東北大学付属図書館報・木這子」vol28・2003.11.1)
1818文政元年10月11日、秋田静臥は三春藩主・秋田孝季の次男に生まれる。諱は季春(すえはる)、静臥は号。十代藩主兄の肥季(ともすえ)は、以前から続く慢性的な赤字財政の立て直し、徐々に高まる幕末動乱への対処にあたった。
1864元治元年、肥季は水戸天狗党の乱で水戸藩尊攘激派・天狗党が目指した日光山の警備を命じられ、藩兵をひきいて日光に滞在、この時の疲労が原因で、まだ幼い8歳の映季(あきすえ)を残して病死してしまった。
1865慶応元年、藩主が幼年のため叔父・秋田静臥が後見となり藩の政務を執る。
1868明治元年、戊辰戦争がはじまり三春藩は奥羽越列藩同盟に加わり、旧幕府軍に援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得た。一方で、板垣退助に恭順の使者を送っていた。
7月、藩主映季自らが城外に出迎えて新政府軍に降伏。その後、藩は会津攻撃の先導もつとめた。この帰順は旧幕府軍にとってみれば手のひら返し、「三春狐にだまされた」と変節を詰る歌が残るほど禍根をのこした。
維新後、賊軍と貶められず、飢えと闘うこともなかった。困難な激動の時代にあって仕方がなかったかも知れないが、会津贔屓からすると複雑。後見の秋田静臥は変節の汚名を引き受けてまでも藩と幼主を守ったのだろう。そうして得た本領安堵。
1869明治2年10月、秋田静臥は三春藩*大参事(知事に次ぐ要職)をつとめる。
また、版籍奉還後、公卿・諸侯の称を廃して華族としたので、秋田映季も華族になる。
1871明治4年、廃藩置県。映季の治世は廃藩置県までのわずか6年であった。静臥は仕官せず、東京に移住し宗家を庇護した。
三春藩出身人物、自由民権運動の河野広中がよく知られる。河野は、高知に赴き板垣退助と話し合いをしたこともある。「西の高知、東の三春」と並び称され、三春は全国に先駆け国会開設、憲法制定など活発な運動を展開した自由民権運動発祥の地ともいわれた。このように、藩とういう国に変わり、日本という国になっても時勢は動いていたが、静臥は仕官せず、甥の旧三春藩主を静かに見守った。
1900明治33年3月14日、秋田静臥、83歳で死去。
三春町は五万五千石の城下町自然豊かな町、国指定天然記念物「三春滝桜」に代表される桜の里として知られる。また、阿武隈川の支川大滝根川に30年の歳月をかけ完成した多目的ダムがある。「さくら湖」と名付けられた貯水池は丘陵地にあるため、入り江や岬の出入りが多く、紅葉の葉のような形をした周長約44㎞。歴史と文化をかもし出す景観に配慮、特に堤体の下流面には城壁タイプの石垣模様を取り入れているという。
植栽された16種類、約3000本の桜がある「さくらの公園」。今は秋。花はなくとも、木の下で過ぎた昔をふり返れば、桜の紅葉に味わいが。歴史は、ダム湖畔の樹齢1000年といわれる天然記念物「滝桜」に趣きを添える。
参考:【ダム水源地ネット ダム水源地環境整備センター2005・2008】/『日本史辞典』1981角川書店/ 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館/ 三春町歴史民俗資料館(福島県田村郡三春町字桜谷5)
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