柔道も人生も名人、柔道家・三船久蔵(岩手県)
リオデジャネイロ・オリンピック、日本選手が活躍して盛りあがった。卓球やバトミントンなど地味めの競技も結果を出した。オリンピックは様々な競技を知る良い機会、誰にも共通の明るい話題だ。メダリストのテレビ出演がふえ、見る方も余韻を楽しんでいる。もちろん軒並み好成績の柔道選手も、笑顔でメダルをかざし誇らしげだ。
ところで、竹刀を握った事もなく、柔道着を着た事もない筆者の勝手な推測だが、「技と心の武道」を剣道は維持、柔道はスポーツに傾いてそう。講道館柔道を完成した嘉納治五郎は日本初のIOC(国際オリンピック委員会)委員で柔道を世界に示した。広く世界で闘うとなれば、武道家より勝負優先の選手というなりゆきは当然か。それでも平成の柔道選手は、先輩武道家の精神を受け継いでいる。おそらく、三船久蔵はその大先輩の一人。
三船 久蔵
1883明治16年、久慈町巽山(岩手県久慈市巽町)三船久之丞の三男として生まれる。男3、女4人の兄姉。生家は久慈の素封家で、代々、米穀と木炭問屋を営んできた。
1897明治30年、仙台第二中学校入学。円太郎馬車に乗って陸奥国八戸に出て汽車で仙台へ行った。4年まで野球をやっていたが、5年の二学期から柔道部へ入った。
1902明治34年秋、三船の強さは仙台中の評判となり、仙台二高と練習試合をすることになった。互いに15人ずつ出場、二中の14人は二高の4人目ではやくも総崩れ、残るは大将三船ただ一人。一同、固唾をのむ中、なんと三船は残る二高生11人を倒したのである。
1903明治36年、二中を卒業。仙台で稽古してもらっていた起倒流道場の大和田師範に帰郷の挨拶に行き、盛岡の奥田松五郎に技を見せてもらうよう勧められた。奥田道場を訪ねた三船は、奥田の「殺気の技」に4度も投げ飛ばされ、達人になれると励まされた。
小兵よく大豪を倒す <空気投げ>は、ひたすら稽古を重ね、奥田松五郎から得た「殺気の技」から、技みがきの重大性を教えられ、研究と修錬を積んだ成果である。
空気投げの原理は、「太陽はまるい、球の地球も回っている。人間もまるければ無事だ。要はバランスがとれておれば自然の法則に合う。押さば回れ、相手が飛べば押せ、引かば斜めに押して出よ、斜めは円の最初の動きだ、斜めに出れば相手も斜めになり重心がずれる。その一瞬をとらえて押す」というもの。
時に無表情、それほどスピードのない動きのなかで千変万化の技を放つ、起倒流柔術と三船自身の柔道が<美しさ>を目的とした点に共通性があるようだ(『岩手の先人100人』遠山崇、写真も)。
“美しさ” リオ・オリンピック体操金メダルに輝いた内村航平選手の「美しい体操」が思いこされる。名人・達人の行き着く先は“美しさ”か。
同36年、三船は上京して慶應義塾に入学、実業を目指したが中退。柔道を講道館で学ぶ。
嘉納治五郎の直弟子となり、鬼横山と恐れられていた六段・横山作次郎に見込まれ、手取り足取りみっちり仕込まれ、めきめき上達した。翌年には初段になった。
1905明治38年ごろ。当時、講道館の柔道は全国の柔術界から理解されていなかった。
それまで柔術は、武士が戦場に臨み、生死の間に活用するところの技であったが、時代の進歩と生活の様が変わったため、嘉納は学問と共に柔術家や名人・達人らと研究、修業を重ね、「柔術の底に流れる日本精神と、徳育・智育・体育の三つが修業によって達し得る」と考えた。
体育は必ずしも柔術の修業のみで達せられるものではないが、最善と考え、危険な技は禁じて、誰にも合理的で有効な技と形を撰び、これに日本講道館柔道と命名したのである。
その講道館柔道はどの位の技量があるのかと、全国から柔術家が他流試合をしにやってきた。横山らが相手をして投げとばしていたが、三船も二段のとき道場破りを投げとばした事があった。
三船は猫のような投げ技ももっていた。練習中、脇から倒れこんできた者によって脚を挫いて徴兵検査を不合格になったが、練習は休まなかった。その間、直立できないのを利用して寝技を研究、完成させた。練習と研究を怠らない三船ならではの成果である。
1906明治39年、3段。大日本武徳会から精錬證を受ける。
1907明治40年、4段。43年、5段。三船は身長160㎝、体重40㎏の短軀ながら投げの妙技を発揮、大車、隅落とし(空気投げ)などの技を得意とした。
――― 相対すると、噂に聞いたとおりの小兵であったが、目玉が異ふ。鼻柱に力がある。顔の筋肉がきりっと緊って活きている。目玉はただ大きくぎょろりとしているばかりではない。熊鷹の目のように、精悍を表徴している。その眼を中心として、三船久蔵の性格が躍動している。だが、どことなく温かみを感ずる人柄だ。持って生まれた高朗の性にもよるであろうが、多年錬磨した肝が何ごとかを物語っている。初対面でありながら、快活に話すのである(佐藤垢石)。
1913大正2年、小柄で力持ちであった父が80歳で死去。父の遺言状に資産を三等分とあったが三船は「今では自分も、柔道で食えるだけの位置になった。子宝に恵まれない次兄の養子となり親として仕えていく。遺産全部は長兄に差し上げよう」と提案、そのようにした。
1917大正6年、六段となり、宮中済寧館で、十人掛け試合に出場。
1918大正7年、七段に昇段。1923大正12年、40歳にして講道館指南役を務める。
講道館の指南役のかたわら、東京帝国大学・早稲田高等学院・明治大学・東京高等商船学校・海軍経理学校・などの嘱託教授、師範を兼ね、柔道の普及に努めた。
1930昭和5年11月、明治神宮外苑で行われた第一回 全日本柔道選手権大会で、特別試合に佐村嘉一郎七段と対戦、自ら編み出した「隅落とし」(空気投げ)で勝利。
1934昭和9年、天覧試合。皇太子誕生の奉祝武道大会で柔道審判員。
1945昭和20年1月、戦争のため長野県に疎開、「樹徳館」を開いて青少年を指導。5月、最高位の十段に列す。
8月15日、天皇「終戦」の詔勅放送。
1953昭和28年、『柔道回顧録』。1955昭和30年、『柔道一路』
1956昭和31年、久慈市巽山公園に三船久蔵記念館ができ、柔道場も併設された。柔道は久慈市のシンボルスポーツとなり柔道場には愛好者が集い今も選手を輩出している。
☆ 昭和33年というご指摘をいただきました。コメントをごらんください。
1961昭和36年、岩手県初の文化功労者となる。
1964昭和39年、東京オリンピック柔道競技員を務める。
1965昭和40年1月27日、死去。82歳。久慈市名誉市民。
参考: 『岩手県の歴史散歩』岩手県高等学校教育研究会地歴ほか2006山川出版社 / 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂 / 『人生の名人』佐藤垢石1941墨水書房 / 『岩手の先人100人』1992岩手日報社出版部
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コメント
初めまして、佐々木と申します。
岩手花巻市の出身です、関西に住んでおります。
ご記載の三船久三記念館の落成記念の試合に出場しました、内容は全く忘れてしまいましたが、ご一緒に写させて頂いた写真も持っております。高校3年の時、昭和33年の事と覚えて居りました。記憶と記事と違っていたので探してみました。http://www.kuukinage.com/nenpyo.html
剣道はガッツポーズなどするとその場で負けと成るそうです。将棋でも敗者を思う事を第一とするそうです。
GHQの禁止から復活する為とはいえ、スポーツ化、国際化が進んで(世界柔道協会のトップも外国人)しまいました。 剣道の国際大会をテレビで見ましたが、此方の方が日本武道として広がっている様に見えました。
投稿: 佐々木伸行 | 2016年10月 9日 (日) 20時39分