女子に道を開いた女性医師、吉岡彌生(静岡県)
2016年10月半ば、上野公園へ行くと相変わらず人出が多い。世界遺産になった国立西洋美術館の前はさらに賑やか、外国人の団体もいた。彼らの笑顔を見るとなんだか誇らしい。東京国立博物館の前をすぎると、いつも締切の池田屋敷の立派な門が開いてる。もしかして公開日?門前の黒いスーツに白手袋の人に尋ねると「関係者だけです」。池田家はどこの大名か聞いたことあるけど忘れたなんて考えながら、その先にある東京藝術大学の〔驚きの明治工藝展〕を観に行った。
江戸期からある自在置物という精巧な美術品の展示でほんとに驚きの工芸品だった。芸大のネットに紹介あり。
別の秋日和、竹橋の国立公文書館に行った。車の通りは多いし、皇居ランナー、通行人もけっこういるが混雑してないし空気もいいような。でも、橋の上からお堀を覗き込むと、水草がいっぱいでがっかり。さて、こちらは〔時代を超えて輝く女性たち展〕。
かつてとりあげた黒田チカや二階堂トクヨの展示があって、知り人に会ったような気がした。
“科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/post-15f1.html
“女子体育の母、二階堂トクヨ (宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/07/post-3f6e.html
明治から昭和まで活躍した女性たちの足跡をみて、先輩女性が道を開いて今があると感じた。その一人、吉岡彌生は
――― 大勢の男学生に交じって、迫害をしりぞけ、志業を達成することは尋常一様の努力ではできない。而もかの女は難きに耐え、苦しみを忍んで、我邦の女医の草分けとなった。江戸から明治になっても女に学問はいらないという社会が続いていた。
吉野 彌生
1871明治4年4月、静岡県小笠郡土方(ひじかた)村の代々の医家に生まれる。父・鷲山養斎は村唯一の医者で、春の弥生の花盛りに生まれた子に彌生と名づけた。
1877明治10年、村の小学校に入学。
1886明治18年、優等で卒業。兄二人が医学修業に東京に出ていたので、女子でも医者になれないかと考えたが、父親に猛反対され、2年間、家事を手伝い、機を織るなどしていた。しかし、初志忘れず、家にある医書を貪り読み睡眠時間を削って勉強。その様子に父が折れ、帰郷中の兄とともに上京する事が許される。
1889明治22年、18歳の彌生は兄と草鞋履きで土方村から静岡まで14里の道を歩き、静岡から汽車で上京した。東京本郷元富士町の兄の下宿に落ち着くと、すぐ湯島の済生学舎に入る。済生学舎は男女合わせて600人余、そのうち女子は40人余で教室に婦人席があった。彌生はドイツ語、物理化学など基礎となる普通学の素養がなく、また、質問すると男子学生に囃し立てたられるなど苦労した。体格がよかったので男子にからかわれるなどいじめられたが耐えた。
1890明治23年5月、内務省医術開業試験の前期試験に一度で及第。故郷の両親、親戚一同は驚き、喜んだ。女子が見下されていた時代、くじけるどころか智慧と勇気をもってやり過ごし勉学に励み、成果をあげ男子学生の上に立った。
1893明治26年、後期試験のための臨床、実地練習や眼底検査などの練習に苦労したが、これも合格。22歳で女医の免状をとった。順天堂病院に入り、実地研究とドイツ語の勉強に力を入れていた。しかし、父が迎えにきてやむなく帰郷、横須賀にある自家の分院を受け持ち、内科・外科・産婦人科から歯科まで診察していた。
そのうち兄が医師の免状をとり帰郷したので、彌生はふたたび上京して、神田三崎町の国語伝習所、ドイツ語の学校、さらに跡見女学校に入学した。
跡見では落合直文の国文学の講義に心をひかれた。また、茶の湯、生け花も習った。かたわら開業準備をし、廃業する同郷の医師から病院をひきうけ、借金をして医療機械を譲り受けた。女医の看板を麹町区飯田町にかかげた。
1895明治28年、本郷で東京至誠学院を開き、ドイツ語を教えていた吉岡荒太と結婚。
父は支度金として80円ほど送ってくれた。夫・吉岡の収入は少ないうえに弟二人の面度をみていたから貧しかった。新婚家庭は食べるにも事欠く貧乏暮らしだった。
1896明治29年春、飯田町へ引っ越して、至誠学院はドイツ語のほかに英語・漢学・数学を加え、予備校にしたところ生徒がふえた。生徒を思い寄宿舎をたてが、やりくりは大変で苦労が多かった。
1898明治31年、至誠学院の真向かいに医者の家があいたので、彌生はその家を借りて開業した。しかし、東京至誠病院の患者は少なく収入はわずかで家賃の払いもままならなかった。夫の学院も妻の病院もこの有様で、吉岡は健康を害し、死去するまで健康を取り戻すことができなかった。
1900明治33年12月、彌生が学んだ済生学舎が風紀上の問題から女子の入学を認めなくなり、在学中の70名の女生徒に退学を強要、医学志望の女子は修行機関を失った。これに同情した彌生は、女医学校設立を思い立つ。
飯田町4丁目9番地の自宅八畳間を教場に、寺子屋式の東京女医学校を創立。最初は志願者4名という困難な道のりであったが、次第に生徒がふえ、彌生は校長となり夫の吉岡が校務一切を処理した。
写真:『女性の出発』吉岡彌生著1941 至玄社より。
1902明治35年、市ヶ谷河田町(旧陸軍獣医学校跡)へ移転して女医学校を拡張した。現在の東京女子医科大学である。写真は診察室の吉岡院長。
1904明治37年、日露戦争。戦争前後には戦争未亡人や職業婦人が多くなり、生徒がさらに増えた。彌生は病院長としての合間に、設備・機械・蔵書の充実・講師の選定から卒業生の就職などを計画実行し、名声あがり学校も発展した。また、研究会・談話会・演説を頼まれるなど多忙の17年間に、200余名の女医を世に出した。
*明治47年以後は従来の医術開業試験を廃し、医学専門学校卒業者のみ免状を許可する」省令がでたため、彌生は数年間、専門学校の認可を受けるため奔走する。
1912明治45年3月3日、専門学校に昇格、東京女子医学専門学校と改称。
1920大正9年3月12日、指定校の認可を得、卒業生は全部、無試験で女医の免状を得られるようになった。当時、生徒数800余名、病院4を有した。
1922大正11年6月、夫吉岡荒太が病で死去。55歳。
荒太の弟の正明が留学から帰り、女子医科大学の専任教授となった。
次はその3年後、大正14年インタビュー記事一部
――― 私の医育に関する信念は、女子なるが故を以て小児科、ないしは眼科の如く比較的観血的の手術を要しない専門だけを選ばせようはしません。女子の特性たる緻密な注意力は外科、産婦人科などにみる大手術に甚だ必要なものであることは言を俟ちますまい。女子は総ての点に於いて医師たるに適するものとは、私の生涯を通じての信念です。否おそらくは何人と雖も異議を挿むことの出来ない事実でしょう。
(『医海きのふけふ』塩沢香1925南江堂書店)
1930昭和5年1月、附属の産婆看護婦養成所、所長を兼務。
1931昭和6年1月、女医学会会長。1936昭和11年7月、結核予防東京市婦人委員会会長などを歴任。
1942昭和17年1月、大日本婦人会顧問。婦人の自由は経済的実力を得ることが先決として、職業および家庭の真の調和を説いて、各種の婦人団体にも参加したのである。
1945昭和20年8月15日、終戦。
1947昭和22年11月、公職追放の指定を受け、1951昭和26年、解除される。
1952昭和27年1月、東京女子医科大学学頭。財団法人婦人厚生会会長ほか就任。
1955昭和30年、勲4等宝冠昭を授与される。
1959昭和34年5月22日、88歳で死去。
参考: 『趣味の立志伝』野沢嘉哉1939有艸堂/ 『コンサイス日本人名辞典』・コンサイス学習人名辞典、三省堂/『貧乏を征服した人々』帆刈芳之助1939泰文館
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