かつて栄えた常磐炭田、片寄平蔵(福島県いわき)
孫たちが幼いころは電車大好き。一人は新幹線を見ると「○○系!」と叫んではうれしそう。もう一人は乗るのが大好き。福島県に住んでいたときパパの車に乗らず、ママと「スーパーひたち」に乗ってやってきた。一口に乗り物好きといっても、汽車・電車そのものが好き、乗ること交通好きとiいろいろ。ちなみに、もう一人の孫は交通博物館にいっても淡々としていた。今、中・高生になって三者三様、どんな大人になるやら。
それにしても世の中、自分が中・高生だったころと大違い。物があふれ便利になり、情報量たるや物凄いことになってる。恩恵に浴す一方、なにか大事な事を忘れてそう。じゃあ、昔がいいのかと言われても困るけど。
ところで、スーパーひたちの常磐線が走る地域に、かつて常磐炭田があった。開発したのが片寄平蔵である。磐城に誇りをもつ著者・大和田与平『磐城之富源』(1915飯田一二)と【グラフうつくしま⑨】を参考にみてみる。
片寄 平蔵 (かたよせ へいぞう)
1813文化10年2月10日、石城郡大浦村大字大森(たたもり)に生まれる。
長ずるにおよんで頭脳明晰、進歩的考えの持主で、材木商を営んでいた。
1849嘉永2年8月、秋田へ木材買い出しに出かけ、雄勝郡河井村の菅運吉によって発見された、きわめて立派な桐の木――― 周囲2丈8尺4寸、枝下10間余、その葉当百銭大を幕府に献上したところ、稀世の美材とあって賞美され、苗字帯刀と乗馬を許された。
1855安政2年6月、平町の南新川で数個の黒い石を拾い上げ、好奇心から火中に投じたところ、黒い石が燃えた。平蔵は以前、江戸の石炭商・明石屋治右衛門から石炭について聞いた事があり、大いに興味をもった。
平蔵部下の白水の住人、高崎今蔵が坑夫を連れて探礦隊で出て、三函嶽の麓、弥勒沢で石炭を見つけた。ただし、平蔵は笠間藩領の人間で、湯長谷支配地の白水で採掘することができなかった。藩主内藤侯の許可を得るため、白水の里正(庄屋)に相談して手続きをした。
“燃える石に情熱を注いだ 石炭業開発の租 片寄せ平蔵”
いわき市内郷白水町にある「弥勒沢」は、常磐炭田発祥の地です。明治時代から昭和40年代にかけて、いわき地方は炭坑と漁業を中心に栄えてきましたが、その石炭を弥勒沢で発見し、石炭業発展の基礎を築いたのが片寄平蔵です。
――― いわきで材木商を営んでいた平蔵は・・・・・・ 「石炭の火力はまきの比ではなく、もし石炭が産出する所を見つけたら国の富源ともなり、計り知れない利益を生むだろう」と聞いて、いわき地方に伝わる風習「くんのうこう」と呼ばれ、猪を追う野火にもちいる“燃える石”を思いだし、夏井川の川岸を探索し、黒い小石を拾い、川をさかのぼって炭塊(良質の石炭)をみ見つけました。さらに山まで行けば必ず石炭があると信じた平蔵は、1855安政2年、弥勒沢で石炭を発見したのです。1856安政3年、明石屋の資金提供を受けて発掘をはじめました。
*<グラフうつくしま⑨2002〔歴史探訪〕>*福島県は県情報誌「グラフうつくしま」をリニューアルし、「ふくしまグラフ」を創刊した。 「ふくしまグラフ」は、福島県の自然、文化、歴史、産業、くらし、まち、人、食、話題など、「ふくしまの魅力」を写真を中心に掲載、県内外に発信するために発行したもの。
一俵につき銀一匁を上納して、小名浜より海上石炭を江戸に送って販路を開いた。また、石炭油(コールタール)の製造にも成功し、内藤侯に献上している。
1858安政5年10月、幕府は品川に軍監繰練所をつくり、軍艦に必要な石炭を平蔵に注文した。御用石炭買い上げの命により、平蔵は選炭3000俵を上納し石炭御用達となった。この莫大な注文は、いわき地方の石炭業を活発にする大きなきっかけとなった。
1859安政6年、ペリー来航。横浜開港が決まり、平蔵は外国奉行所に願い出て同地に、石炭販売所を設けた。そして、石炭はもちろんのこと、いわき地方の特産物である和紙(上遠野和紙)や、干しシイタケも輸出する事にした。江戸や横浜に搬送する雑貨類の輸送費は石炭と一緒にすれば安く、利益が大きかったと思われる。
片寄平蔵は、開国と攘夷にゆれる幕末の時期に、外国貿易に身を挺してとりくみ、横浜の町作りにも尽力。横浜の町人たちは「開港の恩人」として、平蔵を神として祭っている(みろく沢炭鉱資料館)。
1860万延元年8.3 死去。47歳。
平蔵は、たいへんな活躍をし、実績もあるのに資料がみつからなかった。大学図書館などで人名辞典を漁ったが出ていない。おそらくあと8~10年、明治初年まで生きていれば全国に知られていたに違いない。
常磐炭田、余話
1877明治10年、西南戦争。東京及び近県で使用する石炭燃料はもっぱら九州地方に仰いでいたが、戦がおこると封鎖同様の九州から石炭が来なくなった。このとき、平蔵によって知られる磐城炭礦開鑿が進められたのである。
その後、渋沢栄一・浅野総一郎ら東京の実業家が進出、常磐線が開通して各地への運搬が便利となり、莫大な産額を有する炭坑となった。
2001平成13年5月、白水阿弥陀堂とみろく沢炭鉱資料館を結ぶ遊歩道「みろく沢石炭の道」が完成・・・・・・ いわきの近代を顧みるとき、石炭を抜きにしては社会も文化もかたれません・・・・・・片寄平蔵の頌徳碑は、弥勒沢入口に建っています(グラフうつくしま、写真も)。
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※ 今日2016.10.21、鳥取で震度6という大きな地震が起きた。熊本地震から半年、被災地はまだ大変なのに、また地震だ。原発の被害はないらしいが、福島の原発事故があってから、何かあるたび原発は大丈夫か心配になる。いわき市には、福島の原発事故からの避難者が多く生活しているという。どうかこれ以上、どの地にも大地震が起きませんように。
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