幕末志士・民権家・弁護士・96年の生涯、松山守善(熊本)
先日、とっても久し振りに国会図書館へ行ったら、すっかりデジタル化されいてオロオロ。同様の人がいるらしく、レファレンス窓口は親切だった。それでも時間がかかり、やっと1890明治23年のマイクロフィルム資料に辿りつき、請求、待つこと30分。この待ち時間だけは昔と変わらない。その帰り、通りの向こう国会議事堂前のデモが見えた。近くに止まる黒い大型車輌、道の端に並ぶ多勢の人に視界がさえぎられ、何のデモか判らなかった。いずれにしてもデモる人達が、世のため人のため行動していると思いたい。
今は「いちおう平和」な世だが、幕末・明治期にあっては日本そのものが激動し揺れていた。志を主張し広めるのも命がけ。それでも行動を起こす志士たちが江戸東京、京・大阪はむろん、遠く九州熊本の志士も奔走した。命を落とす志士もあったが、生きのび1945昭和20年、終戦直前まで生きた人物がいる。熊本の松山守善その人である。
松山 守善 (まつやま もりよし、俗にしゅぜん)
1849嘉永2年10月15日、肥後熊本城東厩橋街の熊本藩士、脇坂覚太郞と母時子の三男に生まれる。
1858安政5年、内山為彦に入門、習字読書を学ぶ。
1859安政6年、父や兄に吉田松陰・賴三樹三郎・橋本左内ら勤王志士の刑死を聞く。
1863文久3年、松山家を再興し、御昇組に入り、7石3人扶持を受ける。11月、同藩の勤王の志士、*山田十郎の拷問に立会う。釣り拷問にかけられて苦悶しつつも節を曲げない姿に勤王倒幕の念を発す。
*山田十郎: のち信道。後年、大阪・京都府知事、農商務大臣をつとめる。
1868慶応2年、御穿鑿所雇物書(せんさくじょ・刑事裁判所の下役)となる。6月、長州征伐に参戦。
1868慶応4年・明治元年、鳥羽伏見の戦争があったが、松山はいつも通りの役所勤め。この頃より水戸学にふれ会沢正志斎(伯民)、藤田東湖らの著書を愛読。
1869明治2年、国学者・斉藤求三郎に入門、尊皇攘夷の敬神党に加わる。翌年、辞職して同志の糾合に尽力、党勢の拡張につとめる。
1873明治6年、敬神党を喜ばない両親に旅費をもらい、同志・清島竜九郎とともに上京。山田十郎の薦めで*芳野金陵に入門。
*芳野金陵: 幕末・維新期の儒学者。
1874明治7年、鹿児島私学校に入学する予定で帰郷したが、
*宮崎八郎らに*植木学校設立の協力を依頼され尽力する。
*宮崎八郎: 八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵(滔天)の兄弟ともに、明治時代の社会運動家。
*植木学校: 熊本県最初の中学校、植木中学校(通称、植木学校)。ルソー『民約論』、ギゾー『文明史』などを教育する学校であるとともに、県内外に演説に出向いたりする拠点、結社であった。公選民会設立運動もここをベースに展開した。
1875明治8年4月、植木学校開校後、教師兼会計方を担当。この頃から、自由民権運動に参加する。
1876明治9年3月、熊本裁判所十五等出仕となる。官吏の地位が低くまた民権家だからと同志に辞職するよう説得された。しかし、安岡県令の妥協工作とを受け入れ、また親孝行と結婚のためとして同志を捨てる。この年、蝶子と結婚。
同年10月、*神風連(敬神党)の乱。有司専制によって欧化政策が進められていることに不満をつのらせ、廃刀令の公布を機に、神の信託を得たとして蜂起、熊本鎮台などを奇襲、放火。鎮圧後、松山は、かつての同志らの死体検視を行った。
1877明治10年、大分県日田の裁判所に転勤、妻を伴い赴任。
西南戦争。裁判所下級官吏としてはげしく去就に迷う。西郷支援隊参加を思い立つが西郷軍の敗戦を知り途中で引き返す。八郎は西郷に味方して戦死。松山の弟は政府軍の中尉として戦死する。
1878明治11年3月熊本に帰ってみれば、兵火のため見渡す限りの荒野原で旧同志は戦死したり獄屋につながれている。感ずる所があり裁判所を辞任、代言人(弁護士)の試験を受けて合格、免許を得てその後の生業とする。
西南戦争後、自由民権運動はあらたな展開を示し、愛国社が再興され、各地に民権結社がつくられた。熊本でも植木学校の生き残り池松豊記らと民権党の生き残りを集めて相愛社を結成。松本は副社長となって『東肥新報』創刊、急進民主主義を唱えて中央の自由党と呼応した。守善らは、相愛社憲法草案を起草、さらに九州改進党結成に協力して天下に名声をはせる。
1881明治14年、佐々友房ら反民権政党の紫溟会に実学党とともに相愛社も誘われる。紫溟会の佐々は、各派の政論を調和し一致して天下にたとうと勧誘してきたのである。これに対し、実学党はいったん入るが、相愛社・松山守善は拒否する。
――― 松山守善はいう。「凡そ天地の間には自由より貴重なるものなく、己の身より大切なるものはなし。故に己の自由民権を妨害する者は皆仇なり」と。紫溟会の木村はそれに対し「然らば今ここに己の父が無理なることをいうて、己を殴打せんとするときは如何」と問う。
松山は、「逃れて避けんのみ」と即座に答える。
木村は、「逃るべき途(みち)なく、逃れざれば一命を失うの時に至らば如何」とたたみかける。
松山は、「一命には代え難し、父を殺しても一命を全くせん」と苦しい返答。
木村だけでなく居合わせた紫溟会のものがこぞって、「然らば君に対しては如何」といって、固唾を呑んで返答を待つが、松山は、「父且然り、況んや、君をや」と、あっさり答える。
この「自由」をめぐる論争、両者の天皇観の相違をきわめてはっきりと示し・・・・・・続いて「国体」と「政体」をめぐる論争を経て、両者の国家構想の相違が浮き彫りになった(『日本人の自伝』)。
1883明治16年、長崎に数ヶ月滞在中、二人の娘と情を通じ妊娠させた。松山は自伝の一節“弱き者よ汝の名は男”と題して隠さず書いている。いわゆる剛毅で堅固な明治人像と一味違うよう。
1884明治17年6月、妻蝶子死去。12月、堀亀子と結婚。
1887明治20年、政況視察のため数人で上京。徳富猪一郎(蘇峰)の紹介で、勝海舟・大隈重信・後藤象二郎ほかと面会、「益する所」あったと自伝に記す。
1889明治22年5月、熊本市参事会員当選。松山は幾度も選挙にでたが多くは失敗。
1890明治23年7月、第一回衆議院議員選挙。天草郡の中西新作にかわり出馬し反対党候補に11~12票差で当選。しかし、不正投票があったとして告訴され、予審中、応援してくれた村長らが収監され、また敗訴となり8月、失格。
1908明治41年8月、千反町パプテスト教会にてキリスト教の洗礼を受ける。
1913大正2年、妻亀子死去。亀子の姪、広田薩子と結婚。
1917大正6年、政界に復帰、熊本市会議員に当選。
1920大正9年、弁護士を廃業。
1931昭和6年、生活のため弁護士業を再開するも顧客は少なかった。
1933昭和8年、『松山守善伝』(私家版)刊行。「日本人の自伝」に収められており参照した。
1945昭和20年終戦目前の7月22日、96歳で死去。
――― 「政友会熊本支部相談役・前代議士」 高潔清廉の語は、君の資性風格を彷彿せしむるに足る感じがする。実をいえば、あまりに清廉なる人格美の輝きは、恰も、煌々たる天心の玉兎を仰ぐが如く、ために群衆の窺知を許さぬ高く清き境涯の人物に見え、とかく水清うして人棲まず、予言者郷党に容れられざる憾みを結果した例に乏しくないようである。・・・・・・ 君は今、新堀町の閑居に、キリストの教えを奉じて、感謝の生活を送る傍ら、読書三昧の境に耽り、悠々自適し、おもむろに晩年の身世を楽しんでいるものの如くである。しかし、その志は、常に国家社会の上に存して居る(『人物熊本』)。
参考: 『日本人の自伝 2』1982平凡社 /『熊本県の歴史』松本寿三郎ほか1999山川出版社/ 『人物熊本』真栄里正助1923新九州社
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