二本松の幕末明治 (福島県)
2016勤労感謝祭日の翌24日、54年ぶり関東に雪。電車が遅れたり交通機関が乱れて通勤通学に差し支えた人が多い。都内の会社、学校に通っている娘一家はどうしたろう。東北や北海道の人からみれば、積雪5センチでオロオロバタバタの関東は情けないかも。
少し前に、毎日新聞「郷土の活気を再び“農家の夢ワイン”」という二本松市の醸造所[ふくしま農家の夢ワイン]の記事を読んだ。農家の男性8人が設立したワイナリーの話。
東日本大震災直後の春から、自分の畑や耕作放棄地を利用したブドウ栽培からはじめたという。同地は阿武隈山系に囲まれ、かつて養蚕で栄えていたが、時代の波で桑畑が荒れた土地になり、震災前年の暮れに、活気を取り戻そうとワイン作りの話が持ち上がった。ところが、年が明けて3月、震災と原発事故がおき郷土が暗くなった。しかし、夢ワインの面々は事故に負けず、ワイン作りに励み、基礎から学んで2度目の収穫祭を迎えるまでになったという。なんとも前向きな話で、こちらが励まされた。その人達が暮らす二本松、昔はどんな地域だったのかなと気になった。
みれば、明治期は製糸や絹織物(羽二重)の生産が盛んで、広い桑畑が想像できた。しかし、産業や暮らしが変わり、桑畑が荒れたのだ。夢ワインのメンバーは、それを豊かな農村の風景にして、次の世代に残そうとしている。きっと、夢ワインがその思いをつなぐと思う。それでは二本松の昔、まずは芭蕉が記した二本松から。
二本松より右にきれて (「おくのほそ道」より)
二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。 あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、しのぶの里に行く。 はるか山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。 里の童べの来りてへける、昔は此の山の上に侍りしを、往来の人の麦草をあらして此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落とせば、石の面下さまにふしたりといふ。 さもあるべき事にや。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
(『おくのほそ道』大藪虎亮1926研精堂)
二本松少年隊
会津攻めよか 仙台とろか ここが思案の二本松
戊辰の戦い、勝ち誇った官軍は、こうした唄に打ち興じて軍を進めたが、二本松総攻撃は一思案を要するほどの難戦であった・・・・・・官軍は白河口を陥れて北進した。板垣退助率いる枝隊は間道、棚倉三春を略して早くも本道本宮を占領し、二本松隊の帰路を遮断した。城中に残るものは老幼婦女子と君側に持する老臣のみである。
・・・・・・城南大壇口に集合した少年隊25名は、江川坦庵門下の俊秀、二少年を助手に4斤半の砲を乱射して官兵を悩ました。翌る日、砲声が止んだと思うころ、敵の一弾が頭上に炸裂した。天地はたちまち阿鼻叫喚、修羅の巷と化し、胸壁にした畳は四散し、狂奔する大接戦となった。涙なくして綴れぬ血みどろの絵巻、三百年来の城下は焼かれ、恩顧の士卒400余人が節に準じた奥州二本松の落城史・・・・・・
(『福島県郷土読本』第1輯1936社会教育会)
二本松停車場
福島県岩代国安達郡嶽下村字椚場にあり、二本松は旧丹羽氏の城邑にして国道の衝にあたり、戸数二千、人口凡一万、その繁盛なること福島に次ぐ。
市の中央に小阪あり観音山と称す。城址はその山嘴(やまはな)にあり、霞ヶ城(かすみしろ)と呼ぶ。
昔畠山氏数代奥州の*探題に補せられ、此の地に居る。
畠山善継が伊達輝宗を討つと、子の伊達政宗が二本松を滅ぼす。蒲生氏郷が会津に封ぜられると二本松は蒲生氏に帰す。徳川氏に至り、遂に丹羽氏の封地となり、維新に至れり。目下はその跡に製糸工場を設立し工女数百名を使役し頗る盛大なり。
(『日本鉄道線路案内記』桜井純一編1902博文館)
*探題: 鎌倉・室町幕府の職名。沿革の要地の政治・軍事・裁判などの備えのために設置された。
機械製糸と羽二重
双松館: 1886明治19年創立。霞ヶ城跡にある機械製糸工場で経営者は山田修。この会社は二本松製糸会社を継承、工女200人、製糸を海外に直輸出していた。
〔二本松製糸場・金山(佐野)製糸場、佐野理八〕
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-ae37.html
安達製糸合資会社: 1893明治26年創設。字捫橋にあり、工女170余名。社長は寺島利助。
二本松輸出羽二重株式会社: 字南新町にあり、資本金15万円、生産高7千匹。
移川輸出羽二重機械工場: 機台数28。資金1万1千円。山田 修
1841天保12年、二本松藩で生まれる。
1873明治6年、小野組・佐野理八らが二本松製糸会社を創立するとこれに尽力、支配人となる。製糸の改良と事業の拡張により、宮城ほか他県から製糸女工の伝習にくるほど盛んになったが、小野組が倒産したため東奔西走して官の補助を得ることができ、自ら事業を継続、名を双松館と改める。
1877明治10年、アメリカに渡り、各地の状況を調査しニューヨークに直売店を開き、日本二本松製糸の名で輸出販売することにした。製糸改良を怠らず盛況で、1894明治27年、緑綬褒章を授けられた。
(『安達郡誌』1911福島県安達郡)。
安部井磐根
1832天保3年、生まれる。二本松藩士で、奥羽越列藩同盟に反対し、仙台に退けられた。二本松落城後、藩主の旧領回復に奔走して成功し、維新後参事になる。
1877明治10年、福島県会議員。翌年、安達郡長となるも、三島通庸県令の施政に不満をもち辞任。
1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に当選。大成会、有楽組、大日本協会・進歩党に属す。伊藤博文内閣のとき、衆議院議長・星亨除名後、副議長に選ばれた。
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