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2016年11月19日 (土)

咸臨丸と清水次郎長、最後の箱館奉行・杉浦梅潭

 1857安政4年、オランダで建造されたヤッパン号が日本にきた。これが咸臨丸である。
 1858安政5年に江戸幕府がハリスと結んだ「日米修好通商条約」は自由貿易の規定をふくむ最初の条約。条約勅許問題が発生、関税自主権がないなど不平等な条項があったが、批准書交換のため1860万延元年正月、アメリカへ使節が派遣された。
 外国奉行・新見正興、村垣範正、目付・小栗忠順3人の使節はアメリカ鑑ポーハタン号に座乗して品川湾を発し、幕府軍艦・咸臨丸も使節一行の護衛として共に発航した。
 咸臨丸には軍艦奉行・木村介舟、艦長は勝麟太郎(海舟)、使節の随員、それに木村の従僕として福澤諭吉も乗船していた。初めて自力で太平洋を横断、アメリカ滞在一ヶ月、咸臨丸はさまざまなエピソードを乗せて浦賀に凱旋は、よく知られるところ。
 この華やかさにひきかえ、下田とともに開港された箱館奉行・杉浦梅潭(誠)が、日記に残した咸臨丸の最後はさびしい。船も人と同様、行く末があり終わりがある。

      箱館奉行・杉浦兵庫守(本名誠・号は梅潭)

 維新前後の混乱期、開港したばかりの箱館は問題山積。最後の箱館奉行となった杉浦はロシアの南下、外国船入港によっておこる様々な難題に対処していたが、明治維新となり、五稜郭内の奉行所を新政府の箱館府に引き渡して江戸に引きあげた。
 そして、江戸から移された徳川家駿府藩の公議人(藩を代表して対外折衝をする役)となり、明治元年12月、駿河(静岡)へ赴いた。ところが年明、正月すぐに「駿州赤心隊事件」の跡始末に東京に向かう。

 先走るが杉浦のその後を記すと、1869明治2年、外務省出仕さらに北海道開拓使の役人となり再び箱館に赴任。なお、箱館はこの年から函館。維新政府がその能力を認めた杉浦は、1877明治10年に退官するまでおおよそ9年間、箱館市政の責任者をつとめた。引退後は漢詩の会を創り指導もしている。実務だけでなく文の道も優れている。漢詩文集『梅潭詩鈔』が国会図書館のデジタルライブラリーにある。漢詩人の沈山や勝海舟、福島中佐、田辺太一ほか同時代人の名もあり読めば面白そう。でも素養がなく読めない。

      清水次郎長と咸臨丸事件

 1868明治元年8月、旧幕府の海軍総督・榎本武揚率いる箱館へ行く八隻の艦隊があった。そのなかに運送船咸臨丸もいたが、太平洋を渡ったあと、幕府の御用船として小笠原などに派遣されて、機関も使えなくなって取り外されたり大砲も取り外され、咸臨丸は裸の帆前船になっていた。
 榎本艦隊は品川沖を出発したが、犬吠埼付近で大暴風に遭遇して散々の有様、軍艦開陽は舵を失い、回天は帆柱を折られ、三ヶ保は沈み、咸臨は多大の損害を受けながら、辛うじてただ一隻清水港へ入った。咸臨丸は同地が幕府の領分だったのを幸い、安心して船の修理をやっていた。

 ところが、一ヶ月後の9月18日、突然、新政府軍の軍艦3隻が沖合いに現れ、横須賀方面から近付いてきて三保の岬に停泊していた咸臨丸目がけて大砲を撃ち出した。このとき、乗組みの大半が上陸していて、艦内には留守のみが残り、その上、兵器は徳川家の倉庫のなかに入れてしまったので、艦には武器も弾薬もなかった。しかも無抵抗主義を執ったので、はじめから戦争にはならないのに、政府軍は三方から一艘を取り囲んで撃ちまくった。
 咸臨丸の残兵は激怒して応戦したが、衆寡敵せず生き残った者は海に飛び込んだが、それを政府軍が小銃で狙い撃ちした。三保へ上がった敗残兵は繁みに逃げ込んだり、百姓家に潜伏したが、それを三保神社の神主が「旧幕府方の兵を神主が保護したと思われては困る」という懸念から、自ら農兵を率いて追払いに出た。
 惨殺された死体が港にプカプカ浮いていたが、誰一人手を付けようとする者がいない。賊名を負った幕府方の死体を拾い上げたとあっては、どんなお咎めを受けるか知れない。
 これを清水次郎長が、「よし、後でどんな事が起ころうと構うことはない、次郎長が拾い上げて葬ってやる」。舟をだしてためらう子分たちを励ましてある夜、自ら先に立って、七つの死体を拾いあげて、河口の葦の茂った向島という所に手厚く葬った。咸臨丸事件である。今も残る「壮士の墓」がそれで、墓標は次郎長の懇望により、山岡鉄舟がしたためた。

   清水次郎長: 1820文政3~1893明治26。駿河国有渡郡清水港(静岡県)。本名山本長五郎。父は廻船問屋、母の弟米問屋山本家の養子になる。侠客兼博奕打の親分。黒駒勝蔵との抗争は有名。

      神主暗殺事件または駿州赤心隊事件

 咸臨丸事件のとき前出のような事情で、駿州赤心隊員の神主・三保神社の神官と草薙神社の神主の二人が、徳川の浪士に恨み買い暗殺事件がおきた。1868明治元年12月18日夜、三保神社神主の太田健太郎は何者ともしれぬ暴漢に襲われ命を落とした。
 この事件に、駿府藩は下手をすれば藩が取りつぶされるかも知れないと杉浦に折衝を命じたのである。杉浦は上京して各方面に働きかけ、藩は事なきを得た。

  赤心隊。有栖川総督が錦の御旗を奉じて東征するとき、遠州の神官たちは報国隊を作り、駿河の神職たちは赤心隊を組織した。そんな関係で三保神社の太田家も勤王家として知られ、俗に「三保の殿様」と敬われていた。所で、咸臨丸事件の際、敗残兵を追い払ったので、一部の村民や士族たちから深い恨みを買い、夜討ちにあった。

     咸臨丸の最後

 さて、榎本艦隊の一隻として官軍に拿捕された咸臨丸は、北海道開拓使の御用船となる。この頃にはおんぼろの老朽船になりその後、民間に払い下げられ、北海道開拓移民の輸送船となっていた。
 杉浦の日記によれば、1871明治4年8月14日、咸臨丸、函館に入港。

 9月20日の朝、咸臨丸は函館を出航して小樽に向かう。この航海には、仙台の片倉藩の藩士や家族など北海道へ行く開拓民400人乗っていた。咸臨丸同型の艦で300トン、それほど大きくない船に400人もという大変なすし詰めだった。
 咸臨丸は函館を出航してからわずか10数㎞の木古内の沖で座礁してしまう。杉浦はすぐに部下を派遣したが、乗っていた400人が全員無事だったという。これが咸臨丸の最後の航海となり、咸臨丸はわずか14年間という一生であった。

 後年、海に沈んだ咸臨丸を探したりしたらしいが、沈んでいるかどうか判らないらしい。その方がいいような、でも、知りたいような・・・・・・それにしても14年間は短い。

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 400人全員無事と書いた所で、ふと、お隣の国のセオル号事件を思いだした。乗った船によって人生が大きく異なってしまう。でも、誰もが、いつも乗る船を選べる訳じゃない。そして、その船に乗るか乗らぬか分かれ目ってなんだろう。考えさせられる。しかし、宗教とか哲学に無縁、何時ものことながら、日常の茶飯事に紛れ、何事も忘れてしまうのがオチ。

   参考: 『詩人杉浦梅潭とその時代』国文学研究資料館1998臨川書店 /『大豪清水次郎長』小笠原長生1936実業之日本社 

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