旧国技館・東京駅設計の辰野葛西事務所、葛西万司(岩手県)
けやきのブログ2009年にはじめ記事数400余り。東日本大震災からこっちは、福島・宮城・岩手に熊本の明治前後の先人をとりあげている。せめて応援の気持ちでと書いていたが、気がつけば登場する人物に自分が励まされ、学ぶ事も多い。情けは人の為ならず、いろいろな人物に出会える愉しみを得た。
こんな人がいたのか!驚かされることがよくある。実績がありながら知られざる人物は多い。有名無名、境は何なんだろう。建築家・葛西万司ももっと知られていいのではと思う。
葛西 万司 (かさい まんし)
1863文久3年7月23日、岩手県西磐井郡平泉村(現平泉町)の盛岡藩家老の鴨沢舎の二男に生まれる。
1889明治22年、のぞまれて*葛西重雄の養子となる。
*葛西重雄:万司を養子にした頃は古河鉱業勤務、のち鉱業所長をへて大正期、原敬の斡旋により旧岩手銀行頭取となる。
1890明治23年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業。日本の建築学の始祖といわれる辰野金吾の教えを受けた。同期に建築家・横河民輔がいる。
恩師・辰野の勧めで留学、欧米各地のおもむいて建築講学を研究。鉄骨コンクリート造りという成果を得て帰国。
写真は、“岩手の生活文化”より http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/jyutaku/data/meikou2.html
1903明治36年、日本銀行大阪支店、辰野金吾・葛西万司・長野宇平治により設計。
同年8月、恩師辰野と建築事務所・辰野葛西事務所を開設。
1906明治39年、辰野葛西事務所で東京駅の設計にとりかかる。巷間では辰野金吾の設計といわれている。東京駅は岩手県人と縁があり、東京駅の設置場所を決定したのは岩手県出身の鉄道院総裁・後藤新平。のち、東京駅頭で暗殺された平民宰相・原敬も岩手県出身。
“東京駅丸の内駅舎”
着工:1908明治41年、竣工:1914大正3年
設計者:辰野金吾・葛西万司
大正3年に開業した東京駅は、鉄骨レンガ造3階建。1923関東大震災ではほとんど被害を受けなかったが、1945昭和20年の空襲で左右のドームや屋根などは跡形もなく焼け落ちた。戦後の復興工事では3階を2階建に変更したが、2007平成19年から創建当時の姿に復元工事が進められ、しばらく前に完成(国立国会図書館月報2010年4月)。
1907明治40年8月、辰野葛西事務所の設計監督で、旧国技館(のち日大講堂)起工。建て面積3,300㎡ 当時としては東洋第一の有蓋(大鉄傘)大観覧場であった。完成は2年後の42年6月2日。
*国技館: 相撲常設館を国技館と名づけたのは、新聞記者・小説家の江見水蔭。
1908明治41年、『家屋建築実例.一巻』出版(写真)。本書には、辰野葛西事務所で用いられた契約書式・規定・心得などともに、東京火災保険株式会社・第一銀行京都支店・帝国生命保険大阪支店など4件の建築の仕様書や予算書、図面などが掲載されている。その方面に興味のある人は、国会図書館“本の万華鏡”「日本近代建築の夜明け」を。http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/1.html
同年5月、辰野葛西事務所の設計で、盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)着工。盛岡銀行としては、盛岡につながる縁で設計依頼したと思われ、辰野より葛西が実地に当たったもののようだ。国の重要文化財となっている。
1913大正2年(4年とも)、工学博士の学位を得る。
1916大正5年、岩手県*農工銀行本店(第一勧業銀行盛岡支店)完成。建物は昭和51年取り壊された。
*農工銀行: 不動産を抵当に中小農民などへ資金援助を行うため1896明治29年制定の農工法に基づき各地に設立され、漸次、日本勧業銀行に合併されていった。第一勧業銀行の前身は日本勧業銀行、現在はみずほ銀行と、金融機関はいまなお変遷。
1918大正7年、女子学習院を辰野葛西事務所で設計監督、翌3年から着工。関東大震災で屋根瓦が一枚も落ちなかったほど堅牢であったという。
1919大正8年、辰野金吾没。単独で建築設計事務所「葛西建築事務所」を経営
1925大正14年、養父が死去、旧岩手銀行取締役・盛岡信託銀行取締役に就任したが、1929昭和4年にいずれも辞任。
1927昭和2年、盛岡*貯蓄銀行(現・盛岡信用金庫本店)設計。田中実と共同経営となり、葛西田中建築事務所と改称する。
*貯蓄銀行: 零細貯蓄を扱う銀行。1880明治13年、東京貯蓄銀行が最初の専業貯蓄銀行として設立、以後、各地で開業された。
1930昭和5年12月、盛岡信託株式会社(もと岩手労働金庫)完成。ほかに榊呉服店。
1937昭和12年、 単独経営となり、葛西建築事務所と改称する
1942昭和17年、死去。79歳。
葛西は師の辰野に協力、ときには共に設計監督にあたったが、辰野の名があまりに大きく、しかも著名なので・・・・・・辰野金吾の名前の後に添うようにしか中央では知られていないという気の毒な点があることは否めない(『岩手の先人100人』山田勲)。
参考:『岩手の先人100人』1992岩手日報社/ 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社/ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/ /
| 固定リンク
コメント