« 二本松の幕末明治 (福島県) | トップページ | 幻の東京オリンピック・国際連盟事務局長、杉村陽太郎(岩手県) »

2016年12月 3日 (土)

母は新聞社主・娘は女優、小野あき・東花枝(宮城県)

 はやいものでもう師走。先だっての雪には驚かされたが、都内のあちこちではイチョウやケヤキの黄葉がみられる。東北のイチョウやケヤキはもうすっかり葉を落としてそう。所変われば品変わる、木々の状態も違いそう、まして人間は。時代によって女性の生き方も違う。30年前の『宮城縣史』の女性銘銘伝でよく判る。その女性銘銘伝1ページ目は次の3人。

  <相沢のゑ> 父亡き後12歳で小学校を中退、継父がきたが彼も亡くなり、弱った母を助け、4人の義理弟妹を育てるため行商をし30有余年、嫁がず一家の生計をたてた。人々はのゑの献身をほめたたえ官もこれを表彰した。
  <相原八重> 登米邑主の侍医の女八重は、生まれて間のなく母を亡くし、おまけに病で片目を失い、継母にひどい仕打ちを受ける。父はこれを無視。やっと結婚したが、実家にひどい仕打ちを受け、ついにわが子を殺し自分を刺して死んだ。31歳。
  <青木いち> 1636寛永13年、藩主政宗公が死するや、いちの夫仲五郎は目付使番を勤めており、小姓時代から寵を得ていたので当時の習わしとして、自邸で殉死。時に33歳。妻いちは夫への思慕に堪えず泣き暮らしていたが、死後七日、自らくびれて夫の後を追った。19歳。

 県史の銘々伝となれば活躍した女性ばかり。そう思い込んでいたから酷な生涯を送った女性ばかりに「なんとまあ」。編集者の考えは何、と思いつつページをくると、活力あふれる女史、女丈夫がつぎつぎ登場。五十音並びでたまたまの順番なのだ。
 思えば、華々しく活躍して世間にもてはやされる女性と同じ位、苦労を重ね報われない女性も少なくない。それに、誰しも程度の差こそあれ善し悪しがある。編集者はそこを呑み込んで広く採りあげたのでしょう。せっかくだから、順に紹介したい。でも、そうもできないから今回は、話題に事欠かない母と娘とその家族を抜き出してみた。

       小野平一郎 & 小野あき

 1852嘉永5年、徳川幕府、溜詰諸侯にアメリカ使節来日予定の報を伝達する。
   同年、仙台藩水沢邑主留守氏大番士、小野家に平一郎生まれる。養賢堂で学ぶ。
 1864元治1年、平一郎の妻、あき生まれる。
 1866慶応2年、坂本龍馬の斡旋により、薩長同盟成立する。
 1871明治4年、廃藩置県。

 1873明治6年、あき、宮城県師範学校女子部第一回卒業生として社会にで、仙台の幼稚園の先生となる。
 1880明治13年、平一郎は20歳頃から地方政治に奔走、仙台区会議員となる。
 1882明治15年、平一郎とあき結婚。娘、喜代子生まれる。
   あきの政治家の妻としての苦労は容易なものではなかったが、よくつとめた。それは内助の功ばかりではない。政談演説会に、女子は出入りすることが絶対に禁じられていたが、演説会の始まる前に傍聴席に入り、一席政談をやったこともあるという。
 1884明治17年、平一郎、宮城県会議員となる。
   ある年の県議会議員選挙で「小野平一郎の奥さん」と書かれた投票が二枚もあり、女として二票の得票を得たことは珍しい出来事として伝えられている。
 1895明治28年、平一郎、仙台市会議員
 1899明治32年、平一郎、再び県会議員。

  ?年、娘の喜代子は、仙台で「東北新聞」記者となり、ついで東京「中央新聞」の記者となり婦人記者の草分けとなった。
    〔明治の仙台、新聞のはじめと発行人(宮城県)〕
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/01/post-1f73.html

  1905明治38年、日露戦争の凱旋祝賀会が東京の芝公園紅葉館で開かれたとき、東郷大将が「君は新橋か烏森か」と酒の酌を命じたところ、喜代子は憤然として「無冠の宰相新聞記者である」と告げたので、将軍は無礼を謝したという。
    〔ルビ付記者の活躍、磯村春子(福島県相馬)〕
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/12/post-84b7.html

 1911明治44年、平一郎、県議会議長となり、以後長くつとめる。
     この年6月、東京の有楽座東京俳優学校の第一回卒業生らの公演が催された。そのメンバーは、岩田裕吉・諸口十九・田中栄三・東花枝らであった。東花枝は小野夫妻の娘の喜代子である。

     小野喜代子 東 花枝)

 喜代子は長谷柳絮学校から宮城女学校に学び、さらに東京の三輪田女学校を卒業。さらに日本女子大に入学したが、中退して、有楽座の女優養成所の募集に応じた。

 当時、演劇の革新運動が盛んで、帝劇の森律子村田嘉久子などの古典劇に対して、島村抱月、松井須磨子などの芸術座坪内逍遙の文芸協会、小山内薫の自由劇場と日本劇団の革新をはかる、いろいろの運動が行われていた。
 花枝は有楽座において、ハウプトマンの「僧坊夢」、イプセンの「幽霊」、ビヨルソンの「手袋」などを演じている。
 その後、沢田正二郎と共に興行し、「人形の家」や「女優ナナ」のノラに扮して、松井須磨子と競演している。
 しかし、東京における演劇活動に飽き足らなかった花枝は、弟子2、3人を伴ってハワイに行き、サンフランシスコに渡って1年ほど滞在したが、ここで第二の夫、名古屋氏(山梨県人)と結婚した。
 なお、引用の銘銘伝には最初の結婚の記述がなく、第二の結婚の詳細も分からない。また、当時の、花枝インタビュー記事がある。ところが読むと、記者の偏見なのか、目立つ女性への反感か判らないが、芳しくないので割愛。 どうも晩年はさびしい様子。そのせいかどうか、母は健在でなお活躍中にもかかわらず、喜代子の多彩な生涯は45歳で終わる。

 1915大正4年、夫平一郎は社長、妻あきは社主となって日刊紙『東華新聞』を創刊。あきは、太平洋戦争で廃刊するまで続けた。女で新聞社主となったのは、札幌新聞と東華新聞だけではないかという。
 また、あきは名目ばかりでなく、社内で一番熱心に働き、朝から夜まで社内を廻って編集・印刷・事務の仕事から配達と一切の仕事の中心であった。
 1921大正10年、小野平一郎死去。69歳。
   宮城士族興行会総理・仙台市農会長・仙台市養蚕組合長などにつき地方産業界に貢献した。

 1926大正15年12月13日、小野喜代子死去。45歳。
    あきは、5年前に夫を見送り、今また娘を見送ることになり何を思っただろう。でもまあ、それはそれとして、いつも活動的なあきは、新しい時代に遅れをとらぬ意気込みで働き続けた。

 1940昭和15年、「東華新聞」廃刊。あき77歳。この年、飛行機で満州旅行にでかけた。
 1958昭和33年、小野あき死去。95歳。
     あきが一世紀に及ぼうする生涯を終えたこの年11月27日、宮内庁長官より、皇室会議での皇太子昭仁親王と正田美智子の婚約決定の発表があった。

   参考: 『宮城縣史 29』人名編1986 宮城縣編著/ 『新版日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店

|

« 二本松の幕末明治 (福島県) | トップページ | 幻の東京オリンピック・国際連盟事務局長、杉村陽太郎(岩手県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 母は新聞社主・娘は女優、小野あき・東花枝(宮城県):

« 二本松の幕末明治 (福島県) | トップページ | 幻の東京オリンピック・国際連盟事務局長、杉村陽太郎(岩手県) »