農芸化学・納豆菌・農業博士、沢村真(熊本県)
週の半ばになると次は誰にしようか考える。たまたま読んでいた文学史に、明治という新しい時代を迎え洋語の発達、とくに英語の流行をもたらしたが、一方で伝統的漢詩の勢力は依然として盛んだったとでていた。さらに、当代の漢詩人をあげ、漢詩雑誌の発行は地方にも及びなどと具体例をあげるなかで、「つとに推奨せられたる熊本の三才子、井上毅(梧陰)・竹添進一郎(井々)・岡松辰(甕谷)」が目に入った。明治の熊本は漢学にもすぐれた人物を輩出していたのだ。さっそく、三才子にあたろう。
まずは、竹添進一郎をみてみた。ドナルド・キーンさんが奨めていたような覚えがある『桟雲峡雨日記』を図書館で閲覧。ところが本を手に呆然、難しくて読めない。そのうえ竹添の経歴も簡単ではなく、筆者の手にあまる。こんなときは回れ右。
近年、連続して日本人学者がノーベル賞を授賞している。理科方面で探そう、肥後熊本にもいるでしょう。竹添より24歳下の農学者、沢村真がいました。そして、この学者に出会ってよかった。おなじみの納豆がいっそうおいしい。
沢村 真 (さわむら まこと)
1865慶応元年6月10日、肥後国飽託(ほうたく)郡花園村(熊本市)に生まれる。
1887明治20年7月、東京農林学校卒業
東京農林学校: 1886明治19年7月、駒場農学校及び東京山林学校を廃し、東京農林学校を置く。農商務大臣の管理に属し、農業・獣医・および森林に関する学術を学ぶ。4年後、東京帝国大学の分科大学となる。
1893明治26年、高知県農学校校長
1897明治30年、石川県農学校校長
1902明治35年3月、東京帝国大学農科大学助教授
☆ 家畜飼料とその消化を研究し、腸液の消化酵素に関する研究
1903明治36年7月、農学博士号を授与される。ちなみに論文は英文。
1906明治39年、大豆に繁殖して納豆にする「納豆菌」を抽出し純粋培養に成功。
【Bacillus natto Sawamura】バチルス・ナットー・サワムラと名付けられる。
――― [納豆]大豆の製品に納豆あり。納豆に二種ありて一を糸引納豆といい、一を浜納豆といふ・・・・・・糸引納豆をつくるには大豆を蒸熟て未だ冷却せざる中に藁苞に入れて、火を入れて暖めたる窖に入れておけば十数時にして粘質の衣を豆の表面に生ずれば之を取りだして販売す。納豆の生ずるは、藁に付着したる一種の桿状菌が繁殖する為にして・・・・・・藁には種々の細菌存在すれども納豆菌すなわち著者(沢村)のバチルス・ナットーBacillus nattoと命名せし細菌がもっとも能く繁殖するを以て、此者他の細菌を圧倒して独り繁殖して納豆を作る(『食物化学』沢村真1917成美堂書店)。
1910明治43年5月~44年6月、ヨーロッパに私費留学
1911明治44年11月、教授となり、東京帝国大学農芸化学第三講座を担任
――― 東京朝日新聞記事「我が農学界の大恩人 キンチ教授逝く」(1920大正9年8月13日)。次は、明治政府に招かれて来日、日本の農芸化学に尽くしたキンチ教授を惜しむ沢村のコメント。
――― エドワード・キンチ教授は我が駒場農学部駒場農学校と呼んだ時代(1876年)に、農芸化学の教授として招聘され1881(明治14)年まで長い間、たくさんの人々を薫陶した。農芸化学科が独立したのも全く教授の主張によるもので・・・・・・私達はずっと後輩で・・・・・・我が国の博士号を授与し我が農学界に永久に記念せねばならぬ人である」。
1913大正2年、☆ 健康体における消化酵素の効果を研究・『家畜飼養学』を著す。
1915大正4年、☆ 健康動物の消化力に対するジアスターゼの働きを研究。
1916大正5年、☆ 酒精(アルコール)の草食獣の消化に及ぼす影響・アミドの消化吸収に関する研究。
『食物』(家事文庫・第一編)附録<石川県農学校寄宿舎献立表>を見ると、当時のメニューが知れる。
1922大正11年、文部省主催実業補習教育講演を新潟県・秋田県などで行う。
1926大正15年3月、定年退官。
昭和6年1月4日、死去。67歳。
沢村は多方面から解き明かし、時には、狂歌も引き合いにし、難しい事を判りやすく教えてくれている。生意気いうと、これってすごい事だと思う。
三度たく米さえ こはし やはらかし 思ふままにはならぬ 世の中
(池鯉鮒)
日に三度炊(かし)ぐ米でも強(こわ)い飯も出来るし軟らかい飯も出来るし、なかなか世の中のこととは思うままにならない。昔は電気釜などないから、なるほど。ところで炊飯はおいて、世の中が思うようにならないのは昔も今も変わりない気がする。
参考:『飲食物の話・科学世界』沢村真1920中文館書店/ 「駒場農学校英人化学教師エドワード・キンチ」熊沢恵里子2011東京大学 /『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館
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