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2016年12月10日 (土)

幻の東京オリンピック・国際連盟事務局長、杉村陽太郎(岩手県)

 近ごろ、2020年東京オリンピック開催に向けての議論がかまびすしい。まだ4年あると思うのは筆者のような素人考え、実は期限が迫っているようだ。騒ぎを報道で見て、改めてオリンピックは困難な事業だと教えられた。
 かつて、1940年東京が開催都市に選ばれながら日中戦争により中止となったことがあった。どう受け止められたのだろう。開催にむけて力を尽くした人物の心中は、いかに。その人の名は杉村陽太郎、大正・昭和期の外交官である。父杉村濬(ふかし)もまた外交官であった。なお、祖父・秀三、父・濬ともに剣客として知られる。

        杉村 濬(ふかし)

 1848嘉永1年、南部藩士の家に生まれる。
     江戸の*島田重礼の門に入り塾頭となる。
        *島田重礼: 島田篁村。安積艮斎に学び、昌平黌助教となる。諸藩の招聘にも応じず、江戸で私塾を開き子弟を教育。維新後、高等師範、女子師範、学習院で教職についた。子の島田翰も漢学者。

 1874明治7年、征台の役に参加。
 1875明治8年、官を辞し、「横浜毎日新聞」の論説記者となる。
 1880明治13年、外務省御用掛。
 1882明治15年、外務省書記生として朝鮮ソウルに赴任。ソウルで壬午事変(兵士と貧民の暴動事件)が発生。危うく難を逃れる。
 1884明治17年9月28日、長男陽太郎生まれる。

 1895明治28年、閔妃殺害事件(乙未事変)に関連して逮捕され、翌年免訴。ついで台湾総督府事務官。
    濬は豪胆な性格で事件の際、混乱する朝鮮王宮に自ら出向き、衛兵が突きつける銃剣を払いのけ、三浦梧楼・駐韓公使に代わって一切の解決処理にあたった。 のち1932昭和7年、濬の『明治二十七八年在韓苦心録』を陽太郎発行。

 1900明治33年、外務省通商局長として、海外移民計画を立案。
 1904明治37年、南米移民事業のためすすんでブラジル公使となったが、惜しくも任地で病没。享年58。

        杉村 陽太郎

 1884明治17年9月28日、岩手県盛岡で出生。
 1901明治34年、高等師範学校附属中学卒業。
 1905明治38年、旧制一高(第一高等学校)時代。 毎日新聞社主催・大阪湾10マイル遠泳に参加、浜寺から神戸付近まで2時間48分で優勝、日本スポーツ紙を飾った。杉村は、学生時代からスポーツマンで、柔道高段者、水泳の達人、陸上競技と万能選手として知られる。身長185センチ、体重100キロをこす巨漢であった。

 1908明治41年、東京帝国大学政治学科を卒業。満鉄理事・木村鋭市らと同期。父と同じ外交官の道を歩み、外務省に入る。
 1910明治43年、フランス・リヨン大学で学び、日本人として3人目の博士号を取得。
    当時、英仏海峡を泳ぎ抜く者があるかどうかということが、欧州で騒がれた際、陽太郎は自信をもって日本男児の意気を示すはこのときとばかり、敢然申し込もうとしたが、加藤高明駐英大使や周辺から叱られ、断念した。

 1919大正8年、本省条約局第2課長。翌9年、財務参事官。
 1920大正9年、『国際連盟概説』(杉村陽太郎著・国際連盟協会)刊行。

 1921大正10年11月、ワシントン会議に出席。日米英など9カ国が参加し、海軍軍縮、中国・太平洋問題を協議(~1922年)。
   この会議では日本のそれまでの強硬姿勢を、各国との強調を保つ新しい外交政策に転じた。しかし、やがて破局の道をたどることに。
   この年、『軍縮縮少問題研究資料』を出版。内容は、ハーグ平和会議・軍国主義打破・海洋の自由・パリ平和会議。

 1923大正12年、駐フランス大使館一等書記官。ついで参事官に就任。国際法に通じ(宣戦布告に関する研究)法学博士の学位を授けられる。フランスでは柔道普及に協力した。

 1927昭和2年1月19日<官報・彙報>  ◎聘用 特命全権公使杉村陽太郎ハ許可ヲ得テ本月15日在官の儘 常設国際連盟事務局事務次長兼政務部長トシテ同局ニ聘用セラレタり。   (聘用:礼を尽くして人を取り立て用いる)

 以後、日本の国際連盟脱退まで事務局長兼政治部長を6年間つとめる。活動ぶりは、イギリス人事務総長ドラモンド伯の信任を厚くし各国人の部下もまた彼に心服した。
 「いろいろの国際的事件に、あのでかい図体をエッチラオッチラと運びながらも、キビキビとした斡旋奔走ぶりに、彼を徳とする連盟加盟国数は少なからぬものがある」
 欧米外交官連に「真にもののあわれを知る日本人」といわれ、少数民族問題を“四海同胞”の念で対処。また、満州事変後の対日不信感に対する了解工作、とくにイタリアの好意をとりつけた。
 第一次大戦後の欧州政局と縁遠い立場だったので、政務部長になったが、仕事はやりずらかったようだが、忍耐強く対処した。また、花子夫人も社交場に出入りし、苦境に立つ夫を助けた。

 1928昭和3年、軍縮準備委員会・安全保障委員会事務局総長に就任。第一次大戦後の国際協調外交の第一線で活躍。
 1930昭和5年、刊行『連盟十年・世界平和を築く人々』(杉村陽太郎・国際連盟協会)
 1931昭和6年9月18日夜、柳条湖事件おきる。
 1933昭和8年、柳条溝をめぐる連盟討議では、日本は当事国で公然たる活動ができなかった。舞台裏工作もしたが失敗、松岡洋右全権の連盟脱退宣言となる。
   任期満了で、スイス公使。国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、東京五輪招致に尽力。

 1934昭和9年、イタリア駐箚特命全権大使。
 1935昭和10年12月15日、スエーデンのオリンピック委員会に出席。 1940年に開催される第12回オリンピック大会を東京に持ってこようと、ありとあらゆる機会に奮闘。この大会が、東京になるか、フィンランド、またはフィンスキーとなるか。杉村は、この問題を決定すべく日本の運動界を代表して出席、一大論戦を展開し東京開催を好条件なものにした。
 1936昭和11年7月、IOC委員を辞任。

 1937昭和12年4月、フランス駐箚特命全権大使。夏、赴任する。
 1938昭和13年1月、胃癌となり帰国。
 1939昭和14年3月24日、正三位勲一等杉村陽太郎薨去(官報第3677号)。
    56歳、現職のまま死去。日本の外交に貢献したこと多大であるとして、外務省葬がとりおこなわれた。   墓所は東京千駄ヶ谷の菩提寺・瑞円寺、父と相並ぶ。それにしても、父子共に50歳代で没すとは。

 参考:  『非常時日本の外交陣』吉岡儀一郎1936東亜書房 / 『明日を待つ彼』国民新聞政治部1917千倉書房/ 『興亜の礎石1944大政翼賛会岩手県支部/ 『岩手の先人100人』杉村陽太郎(遠山崇)/ 杉村陽太郎wikipedia / 著述は国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/  で読める。

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