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2016年12月31日 (土)

リンゴ技術研究・阿部勘六、萱場ナシ育ての親・阿部紀右衛門 (福島県)

 2016平成28年は事件事故に加えて災害も多く、戦争にまきこまれやしないか不安がよぎりさえした。社会が便利になりスピードアップしたのはいいけど、ついて行けない者はどうしたら。自分もこっちは何とかついて行けても、そっちはダメとウロウロ。「ゆっくりでいいです」が通りにくいって、どうなんだろう。まあぼやいてばかりでも、明るいこと考えよう。例えば、おいしい果物。
 わが家のリンゴは夫の故郷の長野県産だが、ときに福島県産のリンゴも食べる。味は甲乙つけがたくどっちも美味しい。いつだったか、大熊町の果樹園でたわわに実った梨に見とれているとき、梨畑を吹きぬける微風が心地よかった。そう、福島県は果物が豊富。ここに至るまで気候風土と共に産地の努力、先人の努力があった。
 その甲斐あって今なお生産は盛んだが、東日本大震災原発事故で風評被害にあっている。せめて一つでも二つでも福島県産をと心がけているが、皆でそうですればもっとね。

                 ○○○  ○○○  ○○○  ○○○
 

 

      県りんご技術研究会、阿部 勘六


 1872明治5年9月15日、「洋種の苹果を食ふ。大にして味極めて美味」(成島柳北・朝野新聞社長)。 「苹果(平果)は西洋名アップル、俗称オオリンゴニシテ、実大に且つ甜美なり(甘く美味しい)」(田中芳男・明治の植物学者、農政家)。
 同5年、開拓使官園で栽培する西洋果樹は、桜25種、林檎4種、梨53種、杏4種、李プラム14種、桃7種、葡萄30種、まるめろ1種etc

 1877明治10年【東洋新報】――― 明治六、七年ごろと覚ゆ。宇都宮市に植木屋幸吉という老人有り。毎年東北地方へ盆栽の行商を例とし・・・・・・ 福島県郡山にて山梨数俵を買い占め、内職にだして西洋林檎の台木を仕立てるため、果肉を剥ぎ種子をとらしめたという。東北地方の西洋リンゴ苗木は、この老人の供給多しと聞けり。

 1897明治30年、阿部勘六生まれる。
   大正期の福島周辺および信達地方地方の農業経済は困窮の度を加え、遂に危機に瀕することを洞察した勘六は、この打開の方策は果樹、とくにリンゴ栽培によると確信。
 1921大正10年、早世種「祝」「旭」を8反歩栽植した。
 1922大正11年、2反歩を増植。私財を投じて中央から権威者をよび、新しい技術を導入し品種改良に努める。販売に関しては、熱意をもって体制の確立に奔走し、現在の「福島リンゴ」として先進地をしのぐ域に到達させた。
 1951昭和26年、瀬戸孝一とともに、県りんご技術研究会を作り会長になる。後輩の指導に当たると共に、自らは晴雨に拘わらずリンゴ園の手入れと研究に傾倒。農林大臣賞、知事賞など数多くの栄誉に浴した。
 1957昭和32年、リンゴ栽培者として福島県で初めて黄綬褒章を授与された。
 1966昭和41年死去。69歳。
       参考: 若月洋二郎『福島県民百科』1980福島民友社

                ○○○  ○○○  ○○○  ○○○
 

 

      萱場ナシ育ての親阿部 紀右衛門

 

 1882明治15年、阿部紀右衛門うまれる。
   安部紀の名で、近郷近在はもとより県外にも素封家として知られる。
  ?年  安積中学を卒業後、安田銀行宇都宮支店に勤務。
    信夫郡(福島市西部を占める旧郡)の笹木野原一帯の窮乏状態を座視し得ず、鴨原佐蔵らが栽培するナシに注目。京都大学、北海道大学などから、菊地、島教授らを招き、ナシ栽培に関する講習会・研修会をたいびたび開いた。自らも30種に及ぶ新種を開発した。また、千葉県からナシ栽培招いて指導にあたった。


     萱場ナシの始まり、鴫原作蔵

  <かやば梨(福島の梨)> http://senkaen.web.fc2.com/kayabanasi.html

 1886明治19年、鴫原作蔵さんが萱場地区(福島市笹木野原)に埼玉県の苗木商から「早生赤」苗木50本を取り寄せて栽培したのが萱場ナシの始まり。福島県の吾妻山麓に広がる屈指の梨の名産地「萱場」は排水の良い土壌と盆地特有な高温多湿な気候に加え、昼夜の温度差が非常に大きいなど梨の栽培に最適地で、全国まれにみる肉質がやわらかく繊細で、核の部分が小さい特徴を持つ萱場梨の伝統の味が自慢。梨畑は数百ヘクタール広大な面積で、一ヶ所でまとまった面積では日本一を誇る。

 1907明治40年代には、原野を困窮農家に提供してナシ栽培をすすめた。
 1910明治43年、笹木野原梨組合を結成。


    <笹木野梨園御使差遣>

 信夫郡野田村笹木野の梨園は反別130余町歩、樹数凡そ41,000本にしてその産額は206,000 貫、価額40,300余円の多きに達し、味また殊に美なるを以て奥羽にありては青森の苹園(りんご園)と並称さらるる旨、御聡聞に達しければ有馬侍従をお使いとして差遣はる・・・・・・侍従は鴨原佐蔵方及び信梨社にて、村長及び栽培者を集めいと年ごろに・・・・・・
             (『皇太子殿下行啓紀念帖』1910福島県内務部)

 1922大正11年、丸共梨園組合を合併
 1923大正12年、笹木野原梨園共同販売組合、笹木野原梨振興会へと発展。
 1929昭和4年、有限責任組合とする
 1935昭和10年、保証責任の法人組合となり、共同出荷、共選を行うようになった。
 1942昭和17年、戦時下のため解散。
 1957昭和33年5月、黄綬褒章を授与された。
  ?年  野田村村会議員
 1966昭和41年、死去。78歳
     自らナシを栽培し、技術の開発と経営合理化に尽くした功績は大きい。 
                参考: 竹花孝司『福島県民百科』1980福島民友  

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