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2017年1月14日 (土)

鉄道敷設の技師長は工学博士、野辺地久記(京都・岩手)

 昔、卒論を書くのに都立中央図書館に通った。そのとき図書館が建つ、広くて起伏にとむ眺めのいい有栖川宮記念公園を通り抜けるのが楽しみだった。風情のある池ノ端を歩くと、金髪の幼児を連れたお散歩中の外国人と幾度となく行きあった。公園前にあるオープンカフェ、客は殆どが外国人、いかにも港区麻布という土地柄らしい。前は知らなかったが有栖川宮威仁親王邸跡の2万坪を超える敷地は、もともとは陸奧盛岡藩南部家の下屋敷だったそう。どうりで、今も大名庭園の風情をのこし素敵です。公園の情景を思い出しついでに盛岡藩ゆかりの人物、野辺地久記をとりあげてみました。

       野辺地久記   (のべち ひさき) 

 1863文久3年4月、京都市三条室町西入る、和田宗兵衛、母梅子の3男に生まれ、旧南部藩士、岩手県士族、野辺地尚義の養子となる。
 尚義は蘭学者で、伊藤博文、岩倉具視の師である。官途につくのを好まず、晩年、東京芝の*紅葉館を経営。
Photo_2    紅葉館: 明治14年2月開館。岩崎・熊谷・小野・子安らの経営。芝山内の金地院の山続きの景勝地に造られた豪華宴会場、社交ホール。

 

 ?年  工部大学校土木工学科入学。
 1882明治15年5月11日、工部大学校土木工学科首席卒業。第4期。直ちに工部大学助教授に任ぜられる。写真出典「土木人物事典」。

 1884明治17年1月、アメリカ留学を命ぜられる。フィラデルフィア・ペンシルバニア大学土木工学科卒業。

   在学中、勉学のかたわら、元お雇い鉄道技師のクロフォードJ.U.Crawfordの下で実業に従事し、フィラデルフィア鉄道局に勤務して、鉄道技術の習得につとめた。

Photo_3
   滞米中、同じくペンシルバニア大学在学中の柴四朗(東海散士)・*小川一真・榊原鉄硯(浩逸)・鈴木守蔵(関西の紡績業に功績)らと交際。

 左の写真出典: 大沼敏男「佳人之奇遇」注釈(『新日本古典文学大系 明治編)。
   *明治の営業写真家・印刷業者、小川一眞
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/09/post-e862.html

 

 1888明治21年6月、帰朝。
        同年8月、創立期の九州鉄道株式会社・技師長に招かれ、九州鉄道が私設鉄道会社として独自の力で路線を建設できたのは、野辺地の力によるところ大であった。

 

 

 1890明治23年、豊前地方の有志が設立した豊州鉄道株式会社(現・平成筑豊鉄道)に移り、同社の技師長として、路線の建設計画から工事にいたるまで全般を統括。

   行事から宇佐郡四日市(宇佐市)までの幹線鉄道敷設と、行事から分岐して今川沿いを走り石坂峠を越えて田川郡へ至る支線の敷設事業の認可願いを政府に提出。資金の問題から起工が遅れる。

 1891明治24年9月、辞職。
    同年、シャム国(タイ国の旧称)に招聘され鉄道技師として赴任、任期満了により帰国。

 

 1894明治27年6月、わずか7ヶ月で全線の測量と設計を終え、翌年5月に入札、6月起工式が行われた。行事-伊田線の敷設には野辺地久記が技師長となり、陣頭指揮にあたった。一年余りの工期で開通に至ったのは、技師・野辺地久記の能力に追うところが大きかった。
   茶屋町(川)橋梁は、福岡県北九州市八幡東区茶屋町にある旧・鉄道院大蔵線の鉄道橋、現在は廃橋。設計はドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテル・野辺地久記。
   同27年、退職。

 1895明治28年7月、帝国大学工科大学の教授に任じられ、土木工学第一講座担任
 1896明治29年11月、震災予防調査委員会(内閣) 同年12月、土木委員会(内閣)、大阪築港設計委員(内務大臣)仰せつけらる。

 1897明治30年、工部大学校同期生の笠原愛次郎が主唱した鉄道学校(のち岩倉鉄道学校・岩倉高等学校)が創設されると、初代校長に就任。
 【官報】1898明治31年7月11日、東京帝国大学工科大学教授・野辺地久記、学術指導のため京都・大阪二府および兵庫・三重・愛知・滋賀・岐阜五県へ出張。

 1899明治32年1月27日、36歳で病没。青山墓地に葬られる。寺は芝公園金地院。
   【官報】1月31日、工学博士の学位授与せらる。従六位。

   著書『アプト式鉄道建築法』。趣味史稿、生花、茶の湯。   
   相続人:野辺地三郎、久記・長女と結婚。盛岡農学校教諭。住所、盛岡市加賀野新小路14番地。

 

   参考: 『大日本博士録.VOLUM V』1921-1930発展社/ 『土木人物事典』藤井肇男2004アテネ書房 / 『政治小説集 二』(佳人之奇遇・大沼敏男)2006明治書院 / 『みやこ町歴史民俗博物館・博物館だよりno.8』2006福岡県京都郡みやこ町豊津/ 『工学会誌 206巻』1899

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