奮闘努力し架けた内海橋、内海五郎兵衛(宮城県)
宮城県人を採りあげたいと『牡鹿郡誌』をみると、北上川に橋を架けた内海五郎兵衛という人物がでていた。橋名は「内海橋」、橋に名がつくほど大変な事業だったよう。今も人々が内海橋を渡っているに違いない。内海橋を検索すると、【東日本大震災 職員の証言(想い)「そのとき、それから、これから あの日をわすれない】に、大震災当日、内海橋にいた人の文章があった。
「震災を振り返って・・・・・・」
2011平成23年3月11日、地震発生30分前まで(国)398号内海橋の橋梁点検を行っていた。その日は雪が降ってきたこともあり、予定作業内容を切り上げて事務所に戻り点検業者と打合せしていた時、激しく揺れ、テーブルが左右へ滑るように動いた・・・・・・断続的に余震が続き建物や電柱が大きく揺れ、地鳴りが響き恐怖を感じた・・・・・・道路は大渋滞となっていた。黒い水がもの凄い勢いで流れてきた。事務所は海岸より3キロほどの距離 ・・・・・・周辺の水位が上昇し夜には1メートル程の高さになった。事務所発電機も水没し電気が無くなった。事務所の窓から火災により赤く明るい景色が見えた。近くの住民も避難してきた。冷たい水に浸かりながらやっとの思いで事務所に来ても暖房や食料がなく、同じ被災者でありながら申し訳ない気持ちになった。また、事務所周辺には平屋建物内や車の屋根にいる人達もいた。自分達では助けることも出来ず、声かけだけしか出来ない状況に苛立ちを感じた・・・・・・
日常より緊急時の通信及び情報収集手段を準備すること。緊急車両の他事務所との使用を調整するなどの対策が必要である。これから復興に向けて自分ができる精一杯の努力をするつもりである
(宮城縣土木部事業管理課2012-03 東部土木事務所・向陽町分庁舎 B)
大震災で内海橋は流されなかったというが、惨状が思いやられる。手記は震災一年後に書かれたもので、内海五郎兵衛が架橋を完成してから丁度130年目にあたる。北上川に架かる内海橋、そのゆくたてをみてみよう。
内海 五郎兵衛
明治初年の石巻は、石巻・湊・門脇の三か村に分かれ、帆柱林立、車馬絡駅(連なり)して繁盛。惜しむべし、北上川には橋梁なく、わずかに二カ所の渡船場によりて両岸の交通をべんじたりき。
1841天保12年、牡鹿郡水沼村(*石巻市)の農業、片岡の長男として生まれる。のち渡波町の内海家を*烏帽子親としたので姓を内海に改めた。
*烏帽子親: 元服親。中世武家社会の習慣が民間にも及び、風習が残る地方もあった。
1877~明治十余年、 五郎兵衛は農業のかたわら酒造業を営んでいたが、父が急病になり医師を迎えるため馬で石巻に赴いた。
ところが、「前日来の豪雨で北上の濁流滔々渡るべからず、空しく岸頭にたちて夜を徹せしに、風雨止まず、船止めに遭い、父は帰らぬ人となってしまった。五郎兵衛、悲嘆やるかたなく、つくづく思う様、自分と境遇を同じくする者が将来少なくないだろう。今、橋梁を架橋せずんば何れの時を待つべき」、五郎兵衛は憤然として自ら北上川架橋を決意した。さっそく、親戚、知友を訪ね歩いてて決心を語ったが、架橋は空前の工事にして危険なため誰一人賛同するものがなかった。
ときに、石巻消防組頭と本町区長で任侠で知られた石巻本町の田辺吉助が、大西久右衛門・村角知政ら同士を集めて、架橋の認可を得ていた。しかし、資力が乏しく着手できないでいた。五郎兵衛はこれを聞くと、人を介して既得権の譲渡を依頼、交渉を重ね、ようやく保証金500円で架橋権を譲り受けた。
しかし、石巻村・港村の渡船業者をはじめとしてその親戚縁故関係者が反対の気勢を高め、また内務省土木局・県当局の認可も得られなかった。それでも五郎兵衛は屈しない。
1880明治13年2月、第一回の願書を提出。種々の事項について調書を求められた。
1881明治14年1月13日、再び願書を提出。2月14日、追願書を提出。これに対し県は、土地官民地区一筆限と請負年限中可遵守の提出を命じた。3月、書類を提出。
五郎兵衛はようやく着手に近付いたものの、反対の村長・村会がいるなか関係村長・戸長の承認の書類を提出しなければならなかった。このとき、事業に同情を寄せる水沼村戸長・勝又治左衛門、高屋敷公事師の尽力で承認を得られた。これに1年かかった。
*公事師: 江戸時代の訴訟代理人。明治維新の際廃止されたが、のち、弁護士の前身となる。
1882明治15年2月7日、ようやく正式に認可を得ることができた。
架橋工事は川幅のもっとも狭い仲瀬の東西を選んでただちにはじめられた。五郎兵衛は直ちに準備しておいた木材で、橋柱打ち込み方に着手した。ところが暴風雨・大雨が何度かあって工事が妨害され遅れた。橋材が流失して海上に漂流、それをみた人々は両岸に集まって侮った。そのため、投資をしようとする人が事業を危ぶみ資金に苦しんだ。
妻の伊勢子は夫を助け、仲瀬にいて炊事と会計を受け持った。かたわら縄も買えなかったから、伊勢子自身が縄をない、一把に纏まるとすぐ人夫が持って行って使った。五郎兵衛は架橋に2万5千円の資を投じ、凍えるような厳しい冬の寒さでも、蚊帳にくるまって寝なければならないほど困窮した。
そうした五郎兵衛の奮闘はついに人に勝ち、当時の幼稚な技術、資材、資金など数々の困難を克服して、わずか5ヶ月で竣工した。
同年7月15日開通式を挙行。
落成式の属僚をひきつれ列席した松平正直県令(初代宮城県知事)は、熱誠あふれる祝詞をもって五郎兵衛を讃えた。またその功績を永久に伝えるよう「内海橋」と命名したのである。
1895明治28年、五郎兵衛は内海橋を県に寄付。
理財にも長けた五郎兵衛は、橋銭収得の権利期間を出願。賃橋の収益を堅実にあげて、県に寄付した明治28年までに数万金の財をなしたといわれる。『牡鹿郡誌』著者はいう。
「五郎兵衛はただ不撓不屈の人たるのみならず、見識あり、これに加うるに奉公の誠を抱きたりこと明らかなり」
1908明治41年1月18日、死去。享年68。
参考:『牡鹿郡誌』1923牡鹿郡編/『石巻市郷土読本・上学年用』1934石巻市住吉尋常小学校後援会編/ 『宮城縣史・人名編』1986宮城縣
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