中島敦の祖父、中島撫山(江戸から埼玉久喜へ)
子どもの頃から本好き。本に夢中になって家の手伝いをしなかったり、授業中読んだりで叱られた。歩き読書で側溝に落ちた失敗は自慢にならないが、歩きスマホも危ないと思う。
高校生のとき教科書にあった『李陵』が気に入って、著者の中島敦全集を古本屋で買って読み通した。題材を多く中国の古典から取り入れた数々の名作中、『山月記』の朗読を耳にして愛読した人もありそう。そうした題材のヒントを得るには淵源の存在が欠かせないように思う。
中島家にはすぐれた漢学者がいた。敦の祖父、中島撫山とその息子で敦の伯父にあたる斗南らである。なお、敦の父は撫山の6男・田人。
中島 撫山 (なかじま ぶざん)
1826文政12年4月、撫山は大祖父の隠居所、亀戸で生まれる。2月に江戸の大火があり、一家は江戸日本橋新乗物町(東京中央区堀留町)からここに移っていた。
家は幕府草創以来、大名に籠を納めるのを業とする豪商で中島屋清右衛門と名乗っていた。
11歳のとき母死去。
14歳のとき、出井貞順に漢学の手ほどきを受け、江戸の大儒として知られた亀田鵬斎の子の綾瀬(りょうらい)に入門。撫山は学問がますます好きになったが、中島家は大名を相手とする職業であったから、つねに幕府や大名家の役人たちを饗応し、取り入らなければならなかった。町人は武士の下手に出て商売のためには幇間のようなこともさせられ、篤実で潔癖な撫山は商売を好まなかった。
19歳、父死去。撫山は自分を抑えて父亡きあと一家の主として家業に従った。
1857安政4年、祖父死去。撫山は家を捨てる覚悟で、この年秋、友人を伴い日光へ旅に出た。このときの紀行文「楽托日記」が写本として伝わる。
撫山は旅行から帰ると、家産をすべて一族の一人に譲り、年末、妻子、弟妹たちをつれて、両国矢ノ倉の新居に移った。
妻は、須坂の士族の出で、賢夫人の誉れ高く撫山の私塾繁栄の陰の力となった
。
1858安政5年正月、30歳。漢学塾「演孔堂」を開き、学究として踏みだした。
1859安政6年、神田お玉ヶ池で塾を開いていた先輩が病没。その門人たちに懇願され、撫山は合併することにして、北進一刀流の千葉周作の道場に近いお玉ヶ池に居を移した。
1868慶応4年、江戸開城。無血開城であったが江戸は物情騒然。撫山は騒乱を避け、大場村(春日部市)に疎開した。維新後、明治となっても江戸は落ち着いて学問を講ずるような状況ではなかった。
1873明治6年、神道教導少講義に補せられる。江戸から十二里の久喜に移り住み、久喜本町の自宅に私塾「幸魂教舎」をおいた。幸魂とは埼玉の語源である「さきたま」にちなむ。
幸魂教舎の入門者は、北埼玉郡・南埼玉郡・北葛飾郡や県外の栃木・関宿から来る者もあった。教科は、漢学だけでなく、和学(日本古典・万葉・古事記・詩文など)も取り入れられていた。
1876明治9年、塾生がふえて一室増築した。地方の有力者も物心両面で応援。撫山は塾生の訓育には熱心で全力を傾けた。名や利益を求めず、塾生と学問を論じて、妻子が飢えるのを気にかけないふうであった。
1899明治32年、61歳。松島・平泉へ旅。撫山は旅を好みそれまでも、門人を連れて栃木・赤城・筑波などへ旅をしている。
1903明治36年、『性説疏義』著す。亀田鵬斎の「性説」を疏義(注釈)したもので、のちに長男・靖の子によって刊行される。
このころ、3男竦之助が中国に渡り10年ほどいて帰国し、善隣書院で20数年間中国語を教える。敦が「お髭の伯父さん」とよび、落ち着いた学究的な人物という。
1906明治39年8月、日露戦争後、「紀功之碑」が白岡の住吉神社境内に建てられる。撰文・亀田鵬斎、書・中島撫山、篆額・大山巌元帥。
1909明治42年、新町に転居。幸魂教舎の建物はローラーで道路を移動し運んだ。
学校教育の普及によって私塾の基盤が失われつつあった。また、西洋の学問が行われ、漢学は時代に取り残される趨勢にあって、撫山が40年近くも幸魂教舎を守り続けたのである。また、地域の人々もこれを助けた。
この年5月、中島敦、東京四谷箪笥町で生まれる。
父・田人35歳、母・千代子の長男としてうまれる。母が離縁となり、銚子中学の教員であった父が奈良の郡山中学に転任となり、敦は撫山に引き取られ6歳まで、久喜在住の祖父母のもとで育てられる。
1910明治43年、82歳。伊勢参宮、ついで近畿各地を遊覧、紀州の広村まで行った。この、8月、利根川が決壊して洪水が押し寄せ、7日目にようやく水位がさがった。
伊勢神宮を参拝した折、和歌山県有田郡あたりをよんだのが 「紀州道中」という漢詩。
和暄風土好生涯 南紀看来殊富奢 嶂畔僻村皆瓦屋 四山都是蜜柑山
和暄の風土、好生涯/南紀は看来れば、殊に富奢なり/嶂畔の僻村も皆な瓦屋/四山すべてこれ蜜柑の山。
詩は南紀はあたたかで住みよいところ、人々の暮らしも楽なようだ。山辺の僻村でも家々は瓦屋根、あたりの山々には豊に蜜柑が実っている。和歌山県有田郡広村の光景を描いている。この広町からでて、千葉県銚子でヤマサ醤油の基を築いたた浜口家は、撫山の師の亀田家と関わり深く、撫山が広村を訪ねたのもこうした縁からのようだ。詩の読みと意味は、『中島撫山小伝』から引用。
1911明治44年6月、病にかかり十数日間、床について世を去った。享年88歳。
葬儀は神式で行われた。
没後、撫山の詩文集『演孔堂詩文』を三男・竦之助によって刊行される。撫山の学風は、「皇道をもって主となし、六経仁義の教えをもってこれを助ける」ということ。皇漢学とよばれるものだという。
1941昭和16年、有志の手で撫山旧宅の一角に「撫山中島先生終焉之地」碑が建てられた。墓碑銘は敦の父・中島田人が漢文でつづる。
中島敦と父・田人
撫山の子息は長男から7男まで順に、靖次郎・端蔵・竦之助・翊(若之助)・開蔵・田人(敦の父)・比多吉で、他に女子3人の子福者である。
3男、竦之助(しょうのすけ)は、一族中心となっていたようで撫山の遺著や斗南の遺稿を刊行している。4男翊は、プロテスタント派の聖公会司祭となり、5男開蔵は、海軍造船中将となる。6男田人は漢文教師、7男は大陸に渡り当時の満州国要人となった。それぞれに家学である漢学の素養を活かし社会的責任を果たしている。
1915大正4年、敦は小学校に入るため、二番目の母がいる奈良の郡山に行く。
1920大正9年、田人が朝鮮竜山中学に転勤、敦も竜山の小学校に転校する。
1924大正13年、父が再再婚、三番目の母がくる。敦はこの母とも気が合わなかった。
1925大正14年、父が大連第二中学校に転勤となったが、敦は京城中学の生徒だったのでとどまる。成績優秀で4年修了で旧制一高の入試に合格し、東京に行き寄宿舎に入る。
1930昭和5年、敦21歳で一高を卒業、東大文学部国文科に入る。
6月、撫山の次男・端、「斗南先生」のモデルとなった伯父が亡くなる。なお、東大在学中、結婚。
1933昭和8年、父の縁故で横浜高等女学校に就職。小説を書きはじめた。
1941昭和16年、喘息の発作が激しく休職、父の田人が代わりに教壇に立った。
この年、日本の信託統治領であったパラオ諸島のコロール島にあった南洋庁に勤め、日本語のテキストを作る仕事などに従事した。気候は喘息にあわず、官吏生活も楽しいとはいえず、内地勤務を願う。
1942昭和17年2月、『文学界』2月号で「山月記」発表。
3月、帰国。寒さのため肺炎を起こし、世田谷の父の家で病床につく。8月、南洋庁に辞表。11月、喘息の発作をくりかえし世田谷の岡田病院に入院するも、衰弱がひどくなるばかり。
12月4日、死去。享年33歳であった。多磨墓地に葬られる。老いた父・田人は息子に先だたれ慟哭、哀しみの歌をよむ、
吾子逝きぬ ああ吾子逝きぬ 夢抱き光望みて ああ吾子逝きぬ
1943昭和18年、『文学界』の7月号に「李陵」登場。
参考: 『中島撫山小伝』鷲宮町教育委員会1983村山吉廣編集/ 『中島撫山と白岡』2013白岡教育委員会/『中島撫山没後一〇〇年展』2011久喜市郷土資料館/ 『中島撫山の生涯』1998久喜市公文書館/ 『中島撫山関係調査報告書(1)』2000久喜市教育委員会/ 埼玉県立久喜図書館
*** *** *** *** ***
中島敦の特別展・鷲宮市立郷土資料館(鷲宮図書館2F)2022年12月4日まで開催。
「敦 中島家の系譜――中島敦没後80年」
| 固定リンク
コメント