宮崎4兄弟、八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵 (熊本県)
1870明治3年、熊本から上京した宮崎八郎(宮崎滔天の兄)が、故郷の父へあてた便り、
「早稲田は東京の真ん中より北に当り 日本橋よりも一里ばかり、しごく田舎らしき処にて 甚だ閑静につき、学業には宜しく。(北門社)塾へは西洋人雇い入れ、書生三十人余あり。 塾室も至ってきれいにて 少々の野原も御座候。かつ四方の岡には 樹木、森には生い茂り 父様のお好き遊ばされる様なる処にて御座候・・・・・・ 同塾にお国生三人居申候。かつ隣には当今東京第一と唱え候 お医者松本良順と申す者、自ら西洋館造りの病院を立て、書生など相集し 療治仕り候。万一病気の時は 甚だ好都合」
北門社新塾は、山東直砥が主宰し漢学と英語などを教え、学資のない者も学べ人気があった。そこに熊本人三人が学んでおり八郎は訪ねていき、その様子を手紙で知らせたようだ。それにしても、早稲界隈は今の賑わいからは考えられないほど田舎だったのだ。ミョウガ畑が広がっていたと聞いたことがあるが、なるほどそうらしい。
東京郊外も開けていない時代、まして線路網が未だ発達してない時代でも、若者は遠路はるばる勉学に上京。なかには揃って活躍した兄弟もいるが、4人揃って名をなした例は少ないかしれない。冒頭の宮崎八郎は11人兄弟、末弟の宮崎滔天(寅蔵)を含めた弟3人と「宮崎4兄弟」として地元の誇り、生家は県史蹟となっている。
宮崎八郎 明治前期の自由民権運動家
1851嘉永4年、八郎は宮崎政賢の長男。宮崎家は江戸時代初期、肥前国(佐賀・長崎)から移り住んだ郷士。
?年、 熊本藩校時習館で学ぶ。
1864元治元年、長州征伐に父とともに従軍。
1870明治3年、藩命で東京に遊学。国学塾、尺振八の共立学舎で英学、西周の育英社で万国公法を学ぶ。冒頭の手紙はこのころ。
1873明治6年、征韓論にさいし左院に建議する。
1874明治7年2月、佐賀の乱。江藤新平を応援するため帰国 (4月、江藤新平処刑)。
4月、台湾出兵にさいし50名の義勇兵を組織し従軍。帰国後、熊本に植木学校を創設するも、わずか半年で安岡県令に閉校を命じられる。
1875明治8年、上京して海老原穆と交わり、政治評論雑誌の評論新聞社に入社。
反政府の論調を張って、新聞紙条例にふれ入獄。
1877明治10年4月6日、西南戦争で戦死。
平川惟一ら同士と熊本協同体を組織、西郷軍にくみして参戦。八代・萩原堤で政府軍に鉄砲で撃たれ戦死したが、懐にはルソーの民約論があった。時にわずか27歳。
八郎の死を多くの人が悼み、宮崎兄弟の精神的原点となる。
宮崎民蔵 明治・大正期の社会運動家
1865慶応元年5月20日、宮崎政賢の6男。
銀水義塾で学ぶ。兄八郎が西南戦争で戦死したため宮崎家当主となる。号は巡耕。
?年、 自由民権運動をの影響を受けて上京、中江兆民の仏学塾に入ったが、病のため帰郷。
1888明治21年ごろから、「土地も天が作ったものである以上、全ての人間が均分して受ける権利がある」そう考えるようになった。
1897明治30年、欧米遊学、4年後帰国。
1901明治34年、一時、荒尾村村長をつとめる。
1902明治35年、東京で「土地復権同志会」を創立、「平均地権」を唱える。
困窮する農民の救済を目指した民蔵の活動は頭山満や幸徳秋水など左右を問わず支持を得るが、私有財産制の否定につながるとして政府から警戒され、運動は困難をきわる。
1910明治43年、大逆事件がおこり、国内での運動は中絶。
1912明治45年、孫文の新生中国に夢を託し中国に渡り、弟の弥蔵、滔天とともに孫文の革命運動を支援した。孫文の死の床を見舞った数少ない日本人の一人である。
また、妻のミイは留守がちな民蔵に代わって宮崎家を切り盛りし、滔天の妻槌とともに民蔵らの活動を支えた。
1928昭和3年7月15日、死去。64歳。
宮崎弥蔵
1867慶応3年4月8日、宮崎家3男。
1885明治18年、大阪・東京に遊学。
1888明治21年、熊本市藪の内に住み、病気療養の傍ら、民蔵・滔天・友人らとさまざまな問題を論じ合った。
1895明治28年、中国革命に尽力し理想の国を築くことを願い、自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り、中国の言語・習俗の研究に励んだ。しかし、病弱であったため志なかばで病に倒れる。
1896明治29年7月4日、横浜で病没。まだ30歳。
宮崎滔天 (寅蔵/虎蔵) 明治・大正期の志士、中国革命の援助者
1870明治3年12月3日、宮崎家の4男。本名寅蔵、戸籍上は虎蔵。
?年、 徳富蘇峰が主宰していた私塾・大江義塾で学ぶ。
1886明治19年、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入るも中退。
教会に通い、牧師の妻から英語を習った。自由民権運動やキリスト教に影響され、兄の感化もあって社会主義やアジア問題に深い関心を抱く。
1889明治22年、長崎のミッションスクール・カプリ英和学校に入る。
在学中、スェーデン人と知り合う。その縁から前田下学の妹・槌を知り、婚約。
1891明治24年、大陸雄飛の志を抱き、シャム(タイ)に渡るなどののち、犬養毅を知ると、外相大隈重信の好意で外務省嘱託となって中国革命調査のため中国に渡る。
1892明治25年、長男、龍介生まれる。
1897明治30年、帰国後、中国革命を目指して日本に亡命中であった孫文と横浜で会見、革命成功を誓い合った。
11月、孫文は滔天の招きに応じ兄弟の生家で亡命生活を過ごす。
金玉均の朝鮮独立運動、アギナルドのフィリピン独立運動を助け、孫文の恵州挙兵(明治33年)などに参加したが、いずれも失敗。
桃中軒雲右衛門の弟子、桃中軒牛右衛門と名乗って浪曲を学び、共に旅をし、自作の「落花の歌」をうなったりした。
1902明治35年、著作:自伝『狂人譚、』、『三十三年之夢』出版。
1905明治38年、当時、東京に来ていた中国革命の両雄、孫文と黄興とを握手させ、中国革命同盟会を成立させた。孫文の委嘱で中国革命同盟会の日本全権委員になる。
1911明治44年、孫文は辛亥革命に成功したあと、滔天の尽力に感謝し再び、熊本を訪れる。滔天は中国大陸に渡り、晩年まで孫文の事業を助けた。
1918大正7年、長男・宮崎龍介が、炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で歌人の柳原白蓮と恋愛事件をおこす。東大在学中から父滔天の影響を受け、大陸へ渡り中国の事情を探るなどし、民族主義運動に専念。敗戦後は弁護士となる。
1922大正11年12月6日、腎臓病による合併症で病没。ときに51歳。
夢に生き、志に生き、一点の野望もない。夢と情の人。
決起と失望の振り幅が大きく、その点がかえって人間くさく、時をこえ、左右の思想の立場をこえ多くの人を惹きつけている。
参考: 『熊本県の歴史散歩』2010熊本県高等学校地歴・公民科研究会日本支部会編/ 『コンサイス日本人名事典』1993三省堂/ 『民間学事典』1997三省堂 /ウイキペディア
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