「河北新報」主筆・仙台メソジスト教会、鈴木愿太(宮城県)
今、デジタルの世になり情報が満載しており便利になっているが、自分は新聞をゆっくり読むくらいでいい。それでアナログでいいですと言っても用が足りない時がある。情報がネットに溢れているが正しいか、間違いか判らない。かといって、山のような情報を一々調べてはいられない。便利は不便と背中合わせ。
昔は遠くの情報や詳しい事はなかなか伝わってこない。知りたければそこに行かないと解らないことが多かった。それは反感を抱く事柄に対しても同じ、攻撃してやろうと近付いて攻め口を探っている間にいつしか取りこまれてしまうこともある。良し悪しは別として、とくに経験の浅い若者は突進しやすく、はまりやすい。外国人宣教師から英語など語学習得だけのつもりが、キリスト教を信じるようになった明治の青年もいる。詩人サトウハチロウの従兄、鈴木愿太の場合はどうか。
鈴木愿太 (すずき げんた)
1865慶応元年9月9日、仙台で生まれる。父・鈴木春山、母・登和。
兄妹は兄・惇と妹二人。
妹もと子は*一力健治郞に嫁し、もう一人の妹春子は*佐藤紅緑と結婚。
*一力健治郎:けやきのブログⅡ<明治・大正、屈指の地方紙を築き上げた一力健治郞>
けやきのブログⅡ2024.11.11<遼遠に翔ぶ『一力遼打ち碁集』>
*佐藤紅緑:明治~昭和期の小説家。詩人・サトウハチロウ(八郎)と作家・佐藤愛子の父。 正岡子規に師事、俳人としての才能も示した。昭和初期、雑誌『少年倶楽部』に「ああ玉杯に花うけて」を発表し広く名を知られた。
愿太は幼い頃、父春山から漢学を学んだが、父の勧めで英語を学ぶ。春山は、明治と時代が変わってもはや漢学は世に適しなくなったと達観したのである。
?年、中学卒業。東京に出て東京英和学校(のちの青山学院)で2年間学ぶ。
1885明治18年4月、天津条約。朝鮮問題に関する日清(中国)間の条約。伊藤博文・李鴻章が全権として調印。4ヶ月以内の両軍の朝鮮撤退、軍事教官派遣停止、出兵の際は互いに事前通告することを決めた。日本は一応朝鮮において清と対等の立場を確保したが、清の朝鮮にたいする宗主権は黙認した。やがて日清戦争へ。
1886明治19年、「日清の風雲急を告ぐるや、氏(鈴木)等学生間には軽挙にも清国国情の偵察を想ひ渡清の熱熾なり。氏もまた学を捨てて上海に赴きたり」(『日本基督教徒名鑑』)
このとき鈴木はまだキリスト教徒ではなかったが、渡航するにあたり、教師のミス・ヴェール嬢は鈴木の前途を危ぶみ、当時上海の約1年間、南メソジスト教会宣教師ウォルター・R・ランバースへの紹介状を与えた。
同年7月、鈴木は上海へ渡り、中国語の研究をしていたが、よくよく考えて自分の暴挙を悟り、再び英語の勉強を思い立ち、紹介状をもってランバースを訪ねた。そして、ランバースのもとにいるうち、キリスト教を説かれ、キリスト教を奉ずるようになった。
おりからランバースには日本で伝道を開拓しようという計画があり、ランバースは鈴木に一緒に日本へ同道するようしきりに勧めた。鈴木はランバース夫妻の親切に感じ入り日本に帰ることにした。
1888明治21年7月2日、鈴木は神戸でランバースの日本人最初の受洗者となり広島へ向かった。以来、ランバースを助けて通訳者としてランバース一家の瀬戸内伝道を支え、約1年間山陽・四国をともに歩んだ。
1889明治22年、アメリカ・ミズリー州セントラル大学(現:セントラル・メソジスト大学)に入学する。
1894明治27年、セントラル大学卒業。
1895明治28年、アメリカから帰国。関西学院(現・関西学院大学)教授となる。
関西学院の創立: 1889明治22年9月、アメリカ南メソヂスト監督教会派遣の宣教師ウォルター・R・ランバスによって「原田の森」(神戸市灘区王子町・原田通)に創立された。当初は、神学部及び普通学部の二学部から始まった。
1895明治28年3月29日、大河平隆の長女、菊井子と結婚。
長男一郎、長女道子をはじめ9人の子どもに恵まれる。
仙台市北三番町31番地
1899明治32年、河北新報に招かれ、主筆兼編集長となる。
以来、20年キリスト教的精神をもって文筆に携わり、社会教科のためにつくした。鈴木は翻訳小説などを紹介していたもよう。執筆、編集の間に講演をしたり、機会ある毎に教会のために助力。また、日本メソジスト教会幹事・仙台基督教青年会副理事長をつとめた。
河北新報:仙台市東三番町。1897明治30年1月17日、一力健治郞が創刊。
翌年3月より年中無休刊制を断行し、輪転機の購入、写真製整備の設置、活字鋳造の開始などすべて地方新聞のトップをきってもっとも早く行われた。1942昭和17年まで個人経営。
1918大正7年1月、河北新報を辞す。
1945昭和20年、死去。
<けやきのブログⅡ>
2015年1月17日 明治の仙台、新聞のはじめと発行人(宮城県)
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2014年6月14日 明治・大正、屈指の地方紙(河北新報)を築き上げた一力健治郞(宮城県)
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2024年11月11日 遼遠に翔ぶ『一力遼打ち碁集』
参考: 「時計台 : 関西学院大学図書館報」2005 / 日本人物情報大系97(『日本基督教徒名鑑』谷竜平1914中外興信所) /『日本史辞典』1981角川書店
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