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2017年2月 4日 (土)

会津藩と北海道、棒タラ・身欠きニシン (福島県)

 2017年、はやいものでもう2月。ということはすぐに<3・11>
――― 今、福島県は地震と大津波に加えて原子力発電所事故、さらに、風評被害によって諸産業が影響を受けています。特に農業、漁業、観光業などが大きな痛手を被っています。一方ではこの事態を乗り越えて、もとの福島県に戻そうとの努力も行われています (『福島県謎解き散歩』はしがき)。
 書き出しの「今」は、2011平成23年の地震から3ヶ月後。それから6年、復興は・・・・・

 福島県は太平洋沿岸の浜通り・内陸の中通り・新潟県に近い会津の三地方に分かれる。冬でも暖かい浜通り大熊町から多くの住民が、寒さ厳しい山間部の会津に移住して数年、雪にも寒さに慣れたかもしれない。慣れたとすると、それは長く帰郷できないためだから、慣れて良かったと一概に言い難い。せめて、応援の気持ちを忘れぬよう土地の歴史や物をみてみよう。

   “こらんしょ、福島ワールドへ!”に誘われ『福島県謎解き散歩』を開くと、産業編に
【「なぜ棒タラと身欠きニシンが会津の名物になったの?】
 言われてみれば、昔は物資を大量に運べるトラックなどなかった。どうやって、海から遠い内陸の会津に海の魚が運ばれたか、不思議。謎解きを読んでナルホド納得、その謎解きにエピソードを足して記述してみたが、どうか。

 1807文化4年4月、ロシア船、カラフト・エトロフ島に来航して会所を襲う。
     同年5月、ロシア船利尻島に侵入し幕府の船を焼く。幕府、奥羽諸藩にエゾ地出兵を命ずる。幕府、蝦夷(エゾ)地を直轄化。
 1808文化5年、幕府、仙台・会津両藩に東西エゾ地の警備を命じる。
 1810文化7年、幕府、会津・白河両藩に相模浦賀・上総安房の警備を命じる。
 1847弘化4年、会津藩、江戸湾警備を命ぜられる。
 1853安政2年、会津藩、品川台場の警備を命ぜられる。
 1859安政6年9月、幕府、エゾ地直轄地を縮小して会津・仙台・秋田・庄内・盛岡・弘前の6藩に分与し、警衛・開拓させる。東エゾ地のシベツ・シャリ・モンベツ・会津藩領となる。

 1862文久2年、会津藩主松平容保、京都守護職となる。
    同年、会津藩士・*南摩綱紀が藩兵をひきいて幕府領カラフトの警備にあたる。           
    以後、1867慶応三年まで蝦夷地の会津藩領の代官として蝦夷東岸の斜里に在勤、領内を巡視し、漁業を奨励した。
 * https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html
   
 1863文久3年、八月十八日の政変。会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派が長州藩を主とした尊攘派を京都から一掃したクーデター。
 1864元治元年、禁門の変(蛤御門の変)。長州藩の兵乱。長州征伐の原因となる。
 1865慶応元年、*秋月悌次郎(韋軒)、蝦夷地代官として派遣される。秋月は根室西別・シャリ(斜里)などを巡視して漁場を設け、荒れ地を開拓した。
 * https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-4de8.html

  北方警備にエゾ地に派遣された会津藩士は、沿岸にやってくる黒い群れ、鰊(ニシン)や鱈(タラ)を目にしたのである。
 ――― 棒タラ(マダラ)と身欠きニシンは、海の魚を干物にしたものである。オホーツク海岸の警備にあたっていて、春になると、海岸にニシンの大群が押しよせ、藩士は非常に驚いた。地元沿岸ではとれすぎて肥料にもしていたが、タラもニシンもおいしく、会津の妻子のも食べさせたいと思い、運搬と保存に便利なように塩干物にして、北前船で越後へ。新潟県の津川から船で阿賀野川をさかのぼって塩川に到着、海産物問屋が会津一帯を取りしきった。
   塩川は会津盆地の中央部にあり可航限界地点で河岸には倉があった。なお、1869明治2年、エゾ地は北海道、箱館は函館と改称される。
                                                                        
 1867慶応3年、当時、南摩綱紀と秋月悌次郎の姿は会津藩が守護する京都にあった。
   6月、坂本龍馬「船中八策」。10月、大政奉還、徳川慶喜による政権返上。
   そのころ会津藩は、蛤御門を警護していたが、門の内に公家の清水谷邸があり、会津藩士が出入りしていた。その清水谷邸にはカラフト探検をした岡本監輔がいて、清水谷公考の家庭教師をしていた。その岡本はカラフト探検の途次、エゾ地で南摩綱紀と秋月悌次郎らと出会い顔見知りであった。
   11月16日夜、岡本が南摩のもとを訪ねると秋月も呼ばれ、三人で酒を酌みかわした。北方の話題が弾むなか秋月が、ふと「昨夜、浪士が坂本龍馬を暗殺」とつぶやいた。岡本が驚いて犯人は?と問うと苦い顔をされた。その表情で「会津藩にとり龍馬は仇敵」と気付き、岡本はそうそうに辞し清水谷邸に戻った。

 1868明治元年、鳥羽伏見の戦い。エゾ地の警備に派遣されていた藩士もこぞって戊辰戦争に投じた。
   しかし、戦い空しく明治維新を迎え、会津の人々は困難に陥った。その後の苛酷な境遇はよく知られる通りで失ったものや事が多い。そうしたなかで、昔と変わらず引き継がれたものもある。会津名物、棒タラと身欠きニシンはその一つである。

 ――― 棒タラは長く固い干物のままでは食べられないから、3~5センチに切り、米のとぎ汁に1~2日浸し、弱火でゆっくり煮る。軟らかくなったら醤油・砂糖・酒を入れ弱火で煮あげる。これを2~3回繰り返す。正月やお祝い、村の祭りには欠かせない料理である。

 ――― ニシンの山椒漬(さんしょうづけ)
   干物を工夫し海の幸を生かした独特の郷土料理。ぬかを加えた水に身欠きニシンを一晩浸し、油を抜く。戻したニシンをよく洗い、えらなどを取って斜めに三〜四切れにする。漬鉢に山椒の葉とニシンを交互に重ねて入れる。醤油、酒、酢、砂糖を煮立てて漬け汁を作り、冷ましてから漬鉢に注ぐ。押し蓋・重しをして四〜五日漬け、発酵させる。調理に防腐効果のある山椒を加えたのは先人の知恵。

   参考: 『福島県謎解き散歩』小桧山六郎2011新人物往来社 / 『福島県の歴史散歩』2007福島県高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会 / 『岡本監輔自伝』1964徳島県教育委員会 / 『新版日本歴史年表』歴史学研究会1990岩波書店 

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