漢詩人・ジャーナリスト、上村才六(売剣)その他 (岩手県)
毎週半ばに採りあげる人を捜すが、すぐ決まるときもあれば迷うときもある。せっかく選んでも資料が見つからず、あっても著作が漢詩漢文でお手上げのことがある。明治人は江戸の教養というか漢詩・漢文がふつうで筆者には困る。多少の読み書き好きでは間に合わない。今回、売剣・詩命楼主人という号からして面白そうだけれど、著作が読めないから止そう。と思ったが関わる人物が多彩で止めるには惜しい。そこで周辺にも触れれば時代が見えるような気がするが、どうかな。
上村才六 (売剣)
1866慶応2年11月19日、陸奥国盛岡(岩手県)下閉伊郡津軽石村で生まれる。
1879明治12年? *山崎鯢山(げいざん)の集義塾で学ぶ。
*山崎鯢山: 漢学者、名は吉謙。梁川星巌門下の詩人として盛名がある。鷲津毅堂(宣光・漢学者)らと交わり勤王論を唱えた。藩校作人館の助教となったが、奥羽越列藩同盟、戊辰戦争で作人館はいったん閉鎖となる。明治になり岩手県庁に出仕、岩手県地誌の編纂に従う。その後辞職して盛岡に集義塾をひらき経史を教えた。著書は『鯢山詩稿』『英吉利新誌』など。
1893明治26年4月、「尋常小学校教授細目」岩手教育会編・発行・上村才六。
1896明治29年、「盛岡公報」 「岩手日報」 創刊。
1900明治33年6月、東京に移る。東京市麹町区三番町25番地
同年、上京して「少国民」を編集、鳴皐書院(三番町53番地)から発行。
1902明治35年、「少年言文一致会」を創立。
会長に言文一致小説の大家・尾崎紅葉を迎え会員を募集。
1903明治36年、誌名を『言文一致』と改める。
大いに少青年層の言文一致普及に尽くし、言文一致運動史上に特異の足跡を残す。
4月12日、上村の発起で、言文一致誌友会が東京大森の八景園で催された。
8月1日、村上は退陣、経営上の不如意もあるらしい。その後も続けて発行されたが、充分な成功を収めることができず、日露戦争にであって廃刊のやむなきにいたる。
(参照 <「少年言文一致会」の活動>山本正秀、1968茨城大学人文学部紀要・文学科論集(1):55-76)
1903明治36年、上村の鳴皐書院から 野口寧斎主宰 『百花欄』 創刊。
毎号七十頁余り、瀟洒たる体裁の漢詩文の雑誌で、百花欄同志の数は四百二十五家を数えた。寧斎死後も『百花欄』そのものは息長く続いた。 野口寧斎の父、野口松陽も名のある漢詩人であるが、『百花欄』は難しいことを言わない。
「圏点を施さず評語を加えず愚意独り諛と濫とを避けんとするに止まらず、抑も我好む所を以て人に強ひざるなり」として、作者の自由を認め選者の考えを押しつけない。
同36年9月、『売剣詩草』 編集発行。和本33頁、国会図書館デジタルライブラリーで閲覧できる。
内容は、「津市遠帆楼題壁」「奈良」「和歌浦」「前橋」「青森柳原雑詩」「札幌客楼」など七言絶句の数々と、「東洋波瀾題詞」「耶馬溪」と題された長めの文章もある。
題材は全国に渡るが、和歌山が幾度も出ているのは、弟子の高橋藍川(宗雄)が、和歌山県臨済宗成道寺に生まれということがあるかもしれない。
高橋藍川は少壮にして上村売剣に師事。昭和15年『黒潮吟社』を創立。月刊詩誌『黒潮集』を発刊。「藍川詩集」「漢詩講座」「藍川百絶」「藍川百律」など著書多数。
同36年、『鉄櫺詩存』 *大江卓著、上村売剣編集発行。
*大江卓: 明治・大正期の政治家・実業家。
大江が有名になったのは、1781明治4年、神奈川権県令(知事がいなかったので事実上の神奈川県知事)時代に、穢多非人廃止とマリアルーズ号事件を解決したことである。
大江は土佐の出身であるが、1877明治10年の西南戦争に際し政府転覆蜂起をはかり禁錮10年となり盛岡の監獄に入れられる。岩手県は大江の経歴を配慮して軟禁状態においた。読書、散歩、釣り、来訪者との対談も許したという。上村が大江と親しくなったのは、この時期なのだろうか。それとも大江が明治23年、第一回総選挙に岩手5区から出馬したときなのだろうか。よくわからないが、ともかく上村は大江の著述を何冊も編集発行している。
1906明治39年8月、『清韓游踪』東京堂から出版。
内容は3ヶ月余の中国旅行。当時の北京ほか各地の光景、清朝の親王、同地滞在中の日本人との出会い、時に漢詩を作り日本にいる野口寧斎や森槐南ら当代のそうそうたる漢詩人のの評を掲載。
いよいよ帰国となり、仁川から平壌丸に乗船すると、*京釜鉄道の開通式を終えて帰る前島がいた。翌日、木浦に停泊、薩摩の井上良雄、会津の西郷四郎が同船しており初対面ながら日本人同士懐かしく親しんだ。
釜山に停泊中、二人に誘われるまま上陸して*鈴木天眼が社長の「東洋日出新聞社」に行った。翌日ふたたび乗船して長崎に到着。
*京釜鉄道: 京城・釜山間を結ぶ鉄道で明治38年5月開通。朝鮮半島を縦断する鉄道は対ロシア戦略上重要ので明治37年一部開通、全通は日露戦争後る
。
*鈴木天眼(力): 明治・大正期のジャーナリスト。雑誌『活世界』創刊。日本精神と大陸経綸の振作につとめた。日清関係が緊張すると朝鮮にわたり天佑侠を組織した。
同年5月、大江卓の『揚鶴詩稿』『東亜平和策』を出版。東京市本所区小梅町142番地。
1915大正4年、漢詩塾「声教社」をおこす。弟子が多く集まったといわれる。相州逗子池田419番地。
1917大正6年「文字禅」(のち「漢詩春秋」)創刊。昭和の初期の頃迄出していた。
1920大正11年、『周易之研究』第1~5冊。長井金風著、声教社刊。
1927昭和2年、『両韻便覧』 大窪詩仏編集・上村才六補訳、出版・声教社
1930昭和5年、官報に「声教社」広告掲載
<「漢詩講座」田辺松坡、上村売剣監修・会費一ヶ月50銭。一号(再版)特価・30銭>
1933昭和8年、『杜樊川絶句詳解』 声教社同人編。五言・七言絶句156首を講釈。
1934昭和9年、『薩鴈門絶句詳解』 声教社同人編、名漢詩講座・臨時増刊。
1937昭和12年12月15日『漢詩春秋臨時増刊』「忠勇義烈日本魂」(声教社)発売。
上村は交流の深い渋江保(父は渋江抽斎)のため設立した三才社や神誠館から、易学関係の雑誌「天地人」を発行。渋江の晩年は羽化仙史など筆名を使い分け怪奇小説、冒険小説を書き、宇宙霊気、動物磁気、心霊学、催眠術など疑似科学的な著作もした。
1946昭和21年5月7日、死去、81歳。神奈川県逗子町桜山2106番地。
石川忠久
「明治時代の少壮漢詩人といわれた人の多くは、第二次大戦までに亡くなっています。たとえば国分青厓、この人は昭和18年か19年に亡くなっています。これが一つの象徴的な事件ですね。国分青厓は森槐南と競った、明治時代のすぐれた青年漢詩人だったわけです。森槐南はずっと早く亡くなっています。それからもう一人、在野の人で盛岡の有力な雑誌を出していた上村売剣。この人も終戦の頃に、たしか伊豆で死んでいます。こうして、明治時代に少壮漢詩人として活躍した人はみんな終戦前後に亡くなっています」。
参考:「明治時代の著述者・渋江保の著述活動」佛教大学大学院紀要43号2015年山本勉 / 『興亜の礎石』 近世尊皇興亜先覚者列伝1944大政翼賛会岩手県支部 / 国会図書館デジタルライブラリー / 『岩手県の不思議事典』太田愛人2003新人物往来社 / 『岩手県大鑑』1940新岩手日報
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