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2017年2月25日 (土)

世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本)

 わが子が小学生だったころテレビを見ていたら、大活躍したお子さんを喜ぶ誇らしげなお母さんが映っていた。そこで「あなたたちが活躍したら私が母ですって名乗りでる」と言って笑われた。会社人間の父とノーテンキな母のせいか、子離れする前に親離れされた。その子らも今や受験生の母となり父となり気を揉んでいる。実は私も気が気じゃない。でもまあ、こうした心配ができるって平凡だけど幸せかもしれないとも思う。
 ところで、偉大な父や立派な両親がいる家庭の場合、その子は親をどう受け止めて育つのだろう。良かれ悪しかれ親の影響は大きそう。幕末期に生きた親、明治・大正期を生きる子、生まれ故郷が同じであっても道は重ならない。横井小楠横井時雄、名前だけは知っていたが違う分野で、同じ横井だが親子と知らなかった。
 家柄とかもあるだろうが、それにもまして生をうけた時代によっても異なりそうだ。父小楠が生まれてから息子時雄の死まで約120年、さながら日本近代史をひもとくよう。

      横井小楠

 1809文化6年8月、熊本藩士横井大平時直の次男。肥後国熊本内坪井街で生まれる。
   通称・平四郎、字・子操、別号・沼山。藩校時習館で学ぶ。小楠は身長5尺にたらぬ小男であったが、眉太く目はいかにも光っていた。音吐朗々として初対面の者は度肝を抜かれたという。
 1839天保10年3月、31歳。江戸遊学。藤田東湖川路聖謨らと交わる。
 1840天保11年4月、熊本に帰る。熊本藩実学党を結成。その綱領「時務策」を記し藩政改革に乗り出すも失敗。
   <学政一般> <経世安民>の学問としての実学を唱え、諸国を遊歴。越前や尾張に遊び、吉田松陰橋本左内らと交わる。
 1846弘化3年、兄に従い、相撲街に移り、翌年家塾を新築、門人20人余寄宿がする。
 1851嘉永4年、中国、畿内を経て、北陸諸方を漫遊。越前では特に優待される。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率い浦賀に来航。
 1854安政元年2月、同藩の小川吉十郎の娘ひさを娶る。兄が三人の子を遺して死去、遺児の長男がまだ幼く、小楠が番役という役柄と家録百五十石を継いだ。
 1855安政2年、沼山津村に居を移す。肥後藩内で実学党上司層の長岡監物らと分裂、下士・豪農層の代表者として活躍。
 1856安政3年、旧門下生で惣庄屋の矢島源助の妹つせ子を後妻として迎える。
 1857安政4年、長男・時雄生まれる。
    
 1858安政5年、越前藩主・松平春嶽に招かれ政治顧問となる小楠は水戸の藤田東湖、松代の佐久間象山三儒傑と称され、各藩から兵制や財政に意見を求められた。
 1860万延元年、「国是三論」を著し、対外危機に対処するため開国通商・殖産興業による富国強兵を主張。福井藩・橋本左内なきあとの藩政改革を指導した。
 1862文久2年6月、慶永(春嶽)が幕府の政事総裁職につくと、幕政改革・公武合体運動の推進者として重きをなし、改革派による雄藩連合構想を指導した。

 この年12月19日、越前から江戸に出る。神田お玉ヶ池の吉田平之助の妾宅で開国論を唱えていた小楠は三人の刺客に襲われた。熊本藩士・都築四郎が暗殺され、小楠は身をもって逃れた。そのとき、刀を抜かなかったのが卑怯である、敵をみて逃げたのは熊本藩の恥辱であるとして、世録を没収されてしまった。士道忘却事件である。
 1863文久3年8月、越前藩の政変で失脚して熊本に帰る。前年の士道忘却事件により沼山津に隠棲し四時軒と称する山荘で、天下の形勢を観望。その閑居の身となった小楠のもとを坂本龍馬や志士が多く訪れた。

 1868明治元年、王政復古の世となり、小楠は新政府に迎えられ3月、京都に赴く。
    4月23日、参与ついで制度局の判事を兼ね出仕。従四位下。
 1869明治2年1月5日、暗殺される。60歳。
    小楠が乗った籠脇を供が警護しつつ寺町御門をでて寺町を南下。下御霊神社の前にさしかかったとき、壮漢6人が白刃をそろえて斬りかかってきた。キリスト教徒・共和的思想の持ち主として保守派に暗殺されたのである。小楠は牧師でもなく日本の国教にしようという考えはなかったが、開国的政策を喜ばない守旧派からみれば異端邪法であった。
 遺骸は西京南禅寺の境内、天授庵中の墓地に葬られた。

      横井時雄

 1857安政4年、横井小楠の長男として熊本で生まれる。妹の名はみや、のち海老名弾正に嫁す。
 1869明治2年、父の小楠暗殺される。翌年、時雄は長崎に出て英学を学ぶ。
 1871明治4年、*熊本洋学校に入る。生徒は14~18歳までいたが、時雄は最も若い14歳、おとなしくいじめられた。漢学の教師は小楠の弟子・竹崎茶道であった。漢学を頑張り良くできるようになると数学や他の教科もよくなり、身体も性格も成長した。とくに英学を教えていた校長ジェーンズのもとに海老名弾正金森通倫らと通い感化を受ける。
   “存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)” https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

 1876明治9年、花岡山で<法教趣書>に署名し海老名弾正・徳富蘇峰(猪一郎)ら35名キリスト教に入信、熊本バンドを結成したが迫害される。多くは京都の同志社にいったが、時雄は東京の開成学校に入る。開成学校の同級生には井上哲次郎三宅雄二郎和田垣謙造らがいた。なお中村敬宇の同人社で宣教師カックランから受洗する。
   ?年 同志社に転学。卒業後牧師として愛媛県今治で伝道活動に従事し成績をあげた。
 1886明治19年夏、牧師を辞職して同志社神学部の教授、従弟の徳冨蘆花も複校する。

 1887明治20年、妻お峰が産後の経過が悪く死去し、時雄は一人東京に移りついで海外留学する。
 1890明治23年、帰朝。東京の本郷竹町に教会をおこし牧師となる。
 1893明治26年、再び外遊。アメリカにいって寄付金を募集。その後、「六合雑誌」「基督教新聞」の編集と経営にあたる。
 1895明治28年、朝河貫一は、時雄の紹介でアメリカ・ダートマス大学に留学。
    “『日本之禍機』 エール大学教授・朝河貫一(福島県)”  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/06/post-10ee.html

 1896明治29年、母つせ、神戸で死去。つせの妹は矢島楫子(女子教育家)。
 1897明治30年、同志社の社長(校長)に栄転。32年、校長を辞し信仰から遠ざかる。
 1901明治34年5月31日、逓信省官房長の職につく。正5位に叙せられる。
 1902明治35年8月、総選挙。岡山県郡部選出の代議士となる。
 1904明治37年7月、雑誌を発刊する計画があり東京へ出る。

 1907明治40年、衆議院議員選挙、再選される。
 1909明治42年5月6日、官報[正5位勲4等横井時雄ノ辞職を許可セリ]
    *日糖事件に関係して政界を引退。8月10日、判決があり下獄。
    *日東疑獄: 糖業保護をめぐる汚職事件。大日本精糖株式会社重役・磯村音介らが栗原亮一ら代議士を買収し、輸入原料砂糖戻税法の期限延長などを図った。
 予審判事のことば 「実に横井という人は珍しい人物だ。何もかも一つも隠さず事を有体に陳述して了ふた。さすがに宗教家である」。
 政友会の代議士の一人 「どうも困った事だ。横井君は政治家でない。あれが政治界に入ったのは、大変間違っている。何もかも言って了ふたから、多くの人が、罪に陥いらぬまでも検挙を受けるような禍を引き起こす結果になった」。
 小崎弘道 「こういう事件があってのち横井君は信仰に立ち返って伝道界に入ると期待していたが、私共の希望を満たすことができなかったのであります」

 1911明治44年、刑期満ちて出獄。
 1916大正5年、 ロンドンへ渡る。 同8年、世界大戦の平和会議に出席。
 1922大正11年、帰朝。この頃、熊本県八代の球磨川で鮎漁を観覧中に脳溢血で倒れる。その後、須磨やその他の地で静養
 1928昭和3年9月13日、死去。大分県別府の大塚惟明の別荘でこれまでの事績からすると、さびしく世を去った。

   参考: 『少年伝記叢書. 號外 横井小楠文』1896民友社/ 『故横井時雄君追悼演説集』徳富蘇峰ほか1928アルパ社 / 『蘆花の芸術』前田河広一郎1943興風館 /『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社

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