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2017年3月 4日 (土)

明治・大正・昭和の小説家・随筆家、永井荷風

 テレビ番組「探検バクモン」を楽しんいるが、先日は<辞書>、広辞苑の編輯部を訪れていた。自分の『広辞苑』をみると、昭和三十八年第一版第十一冊とかなり古い。
 先日、その広辞苑が1600頁でぱっくり割れてしまった。引きづらいし、言葉は変化してるし、第六版に買い替えたらよさそうだが歴史好きの筆者には古い方がいい。
 それにしても、明治期刊行の辞典・事典類はイロハ順、引くのも漢文体を読むのも大変。明治は遠くなったが、その明治から大正・昭和まで活躍したのが永井荷風である。じつのところ荷風の作品はちょっとしか読んでいないが、生き方「エリートになれなかった、それともならなかった」かが興味深い。荷風の祖父は前に書いた鷲津毅堂である。
   “登米県権知事、漢学者・鷲津毅堂(宮城県・愛知県)”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/12/post-359d.html
 
      永井 荷風

 1879明治12年12月3日、東京小石川区金富町45番地で生まれる。父は愛知県士族・永井久一郎、母は鷲津毅堂の次女。長男、本名・壮吉、別号・断腸亭主人
  ?年  小石川黒田小学校・尋常師範学校附属小学校で学ぶ
  ?年  書画・漢詩・英語などそれぞれの塾に通って学ぶ。
 1897明治30年、高等師範附属中学を卒業。この年、父が文部省会計局長を辞し、日本郵船上海支店長として赴任。父に従い3ヶ月あまり中国で過ごして帰国。
  東京高等師範学校附属外国語学校に入り中国語を学び3年で退き、小説家・広津柳浪に師事する。翌年、習作「おぼろ夜」を発表。このころ、清元・手踊り・尺八の遊芸を師匠について習い、落語家として高座にあがろうとさえした。

 1900明治33年、福地桜痴の門下生として歌舞伎座の作者部屋に入り狂言作者を志した。一年して桜痴に従い、日出国新聞に入社。
 1901明治34年、退職して暁星中学夜学でフランス語を修得。  
 1902明治35年、フランスの作家ゾラに傾倒、「野心」「地獄の花」など発表。
 1903明治36年、25歳。アメリカに渡り、古谷商会などで働く。やがてカラマヅ(?)の大学に入り、半年して日本公使館官吏としてワシントンに赴き、さらに横浜正金銀行ニューヨーク支店員となる。
 1905明治39年、正金銀行リヨン出張所詰を命ぜられフランスへ渡る。このころ、アメリカ女性と恋愛していたらしい。半年後、銀行を辞めてパリに遊ぶ。
 1908明治41年、帰国。「あめりか物語」「ふらんす物語」「すみだ川」「冷笑」などの作品を発表し、耽美派を代表する流行作家となった。

 1910明治43年、慶應義塾文科教授になる。「三田文学」を主宰し、作品を発表。

  ――― 三田派の元祖は永井荷風である・・・・・・荷風によって三田派の存在が意義あるものとなった。従って渠の三田派における勢力は、島村抱月の早稲田派におけるよりも更に偉大である。渠は日本郵船会社横浜支店長永井某の長男・・・・・・荷風には重みもあれば、貫目もあり、昔は知らず、当今は満更馬鹿息子でもない、しかし乍ら昔気質の親爺の目で見れば、小説を読むこと既に仕様のないグータラ息子である。
 すなわちこの 小説を読む事を阻止せんがために、米国に追いやられた。ところが、これが却って仕合わせとなり、米国からフランスあたり遊び回り、思うままに各国の文学や美術や、演劇を研究した。その洋行土産の最初の作品が「アメリカ物語」「フランス物語」である。これによって一躍大家になってしまった。自然主義に行き詰まって何らかの新しい刺激に渇した文壇は、こぞってこの新帰朝者の土産物の周囲に集まり来たり、声をあげて歓喜した
      (『現代之人物観無遠慮に申上げ候』耽美主義の元祖・永井荷風より)

 
  同43年、大逆事件。明治天皇暗殺計画の容疑で逮捕された社会主義者・アナーキストらが大逆罪で起訴される。宮下太吉らの自白以外の証拠がないまま大審院判決で幸徳秋水ら12名が処刑された。<大逆事件>を契機に、荷風は自身の文明批評の無力さを自覚、次第に江戸の戯作者にならう態度をとるようになる。

  ――― 慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々四谷の通りで囚人馬車が5、6台も日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない・・・・・・然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった・・・・・・以来、わたしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した
                           (自伝的随筆『花火』より)

 1916大正5年、慶應義塾教授を辞し『三田文学』からも手をひく。
     同年、雑誌『文明』創刊。同誌に「腕くらべ」を連載。

 1917大正6年9月16日~昭和34年4月29日まで書き続けた日記「断腸亭日乗」は戦後公刊され注目を集める。簡潔な文語体で書かれ余情あふれる随筆文学の趣がある。

 1918大正7年、「おかめ笹」を執筆、そのほか多くの随筆を書いた。
 1931昭和6年、「つゆのあとさき」 1934昭和9年、「ひかげの花」
 1937昭和12年、長編小説「墨東綺譚」を発表、好評を博したが戦争の激化にともなって作品発表は困難となった。反俗精神を貫き戯作者的態度を持ち続けたその作品は、敗戦後に発表されて評判をよんだ。         
 1890昭和23年、『荷風句集』昭和丑のとし夏五月、荷風散人。荷風は晩年、風変わりな生活ぶりで話題をよんだが、この句集の「序」でもうかがわれる。

   ――― 過ぎにし年月、下町のかなたこなたに侘住ひして、朝夕の湯帰りに見てすぎし町のさま、又は女どもと打ちつどひて三味線引きならひたる夜々のたのしみも、亦おのづから思返されて、かへらぬわかき日のなつかしさに堪へもやらねば・・・・・・
      子をもたぬ身のつれづれや松の内 
      紅梅に雪のふる日や茶のけいこ

 1952昭和27年11月、文化勲章を受章。
    戦後の荷風の関心は、浅草を中心とする歓楽街に向けられ、死に至る直前までほとんど毎日同付近を散策していた。
 1959昭和34年4月30日、胃潰瘍のため吐血し急逝していたのを、その朝手伝いの婦に発見された。80歳。  

    参考:『現代之人物観無遠慮に申上げ候』河瀬蘇北1917二松堂書店 /『作家論』正宗白鳥1942創元社 / 『近代日本の作家と作品』片岡良一1939岩波書店/ 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院

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