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2017年3月25日 (土)

矢巾町、旧煙山村の明治・大正 (岩手県)

 野球WBC侍ジャパン楽しませてもらった。でも雨のドジャースタジアムで勝利叶わず残念、力が抜けた。友だちからも、脱力感ハンパナイメール、勝負の世界は厳しい。
 夫は甲子園出場経験ある高校の野球部だった。思い出話に「ケツバット」があってびっくり。それでも、厳しく辛い野球漬けを振り返るとき、いつも生き生きしていた。その表情を見ていると、汗と土まみれの日々こそ青春と思えた。春寒の今、甲子園では未来の侍ジャパン候補、高校球児がしのぎを削っている。どこの学校も体罰はないだろうが、練習の厳しさは昔も今も同じでしょう。みんなガンバレ!

 2017年センバツ第89回、岩手県から盛岡大付属不来方(こずかた)2校出場、盛岡大附属はすでに初戦突破。21世紀枠出場の不来方高校のメンバーは少ないが、女子マネージャーは「持ち前の元気と明るさで10人と思わせないくらいチームを盛り上げます・・・・・・真っ向勝負で戦います」と頼もしい。 第4日目、静岡高校と対戦するも惜しかった。静岡は春夏通算40回目出場校で相手にも恵まれなかった。
 とはいえ、三塁手の舟山選手“ピンチでライナー好捕”をはじめチーム全員、精いっぱい活躍。試合後の「最高の舞台を楽しめた。努力はうそをつかなかった」に大きな拍手。このままサヨナラは惜しいので学校所在地の岩手県矢巾町南矢幅(旧煙山村)昔を見てみる。

          矢巾町
 
 矢巾町は盛岡市南方の農業の町。東北本線矢幅駅
      近世に雫石川(しずくいしがわ)から引水した鹿妻(かずま)堰が米作を発展させた。水田が広く徳田米を産出。ところが、盛岡市の住宅地として変容、最新設備のガス処理によるリンゴ貯蔵施設アップルセンターを設立(1996平成8年『コンサイス日本地名事典』三省堂)。 震災被害など現状はどうなのだろう。

 1875明治8年、矢幅停車場のある村で柳田国男生まれる。漢学者・岡松操の6男。
       柳田国男: 明治・大正・昭和期の民俗学者。のち、『紫波郡昔話集』を編集発行し、*佐々木喜善に捧げる。
  *佐々木喜善: https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/06/post-1aab.html 

 1876明治9年8月、行政区改定。南矢幅は赤林村となる。

 1882明治15年2月2日、高橋白命煙山村上矢次の旧家に生まれる。
      高橋白命: 幼い時に家が倒産、そのうえ母を早く亡くす。19歳で岩手県師範学校に入学、貧しく苦心多いなか学業を続ける。早くから歌道に通じ、与謝野鉄幹の「新詩社」思想を愛好したが、地方郷土史の研究を志した。まず紫波郡の研究からはじめ、『志波城変遷史』著し、長詩『礒雞』に考古学上の述語を採りいれ評価される。1905明治38年3月、学半にして病で23歳で死去。死を惜しみ『白命遺稿』を出版頒布。
    栗の葉は松にきくより風軽し 舟のこぐ如ちるはかわゆし
                          (『紫波郡誌』1921岩手県教育会紫波郡部会)

 1887明治20年4月、従来の煙山・赤林・矢次の三小学校を合併して矢次尋常小学校を創設。
 1889明治22年、町村制実施により南矢幅は、赤林・矢次・広宮沢・矢幅など併せて煙山村となる。
    煙山: 語源はアイヌ語のケエムヤビ(舐め登る)より起こったもので、南昌山の全貌が表徴している。
 1900明治33年、矢次尋常小学校に、高等科を併置し、校舎を新築。 
 1907明治40年5月、煙山農業補習学校創立。生徒数70人。
 1908明治41年4月、村社の熊野神社(南矢幅花立)に上堰稲荷神社を合祀し、同時に東宮行啓紀念として社殿を再建。

         煙山村名所旧跡

   *南昌山: 第三紀の噴出に係わる凝灰岩および溶岩等より成る。山中に南昌山神社・*幣縣の滝・笊淵・大滝などの奇勝あり。古くは徳ヶ森変じて毒ヶ森と呼ぶようになったが、元禄期に南部藩主の儒臣が山号を選び南昌山と称し、南昌山と改称。
   煙山館: 城内山とも。頂上に階段の跡を残しわずかに館墟と知る。足利氏の一族、斯波氏の臣・煙山山城守の居館であったが、天正16年斯波氏の没落と共に亡ぶ。
   *幣縣の滝: 南昌山の東麓、岩崎川に上下2爆あり、上の滝は高さ12尺、下の滝は高さ20尺、巾は上下とも15尺あり。幣縣の由来は、南昌山に登る樵夫が、正月8日必ず山神に捧げようと瀑上の古木に幣を懸けたるにより名付けられた(『紫波郡案内』1917菅原七郎編)。

          煙山村・軍人戦死者   (『紫波郡誌』人物誌より)

  戦名     年月日        戦死地       階級・氏名
日清戦争  明治29年2月28日  山東省     煙山村二等卒 中野與五郎
雪中行軍  明治35年1月     八甲田山麓     小笠原寅松
日露戦争  明治38年3月11日 清国奉天付近 上等兵勲八等功七級・松本種松
        明治38年3月5日  揚子屯      一等卒勲八等功七級・小笠原福次郎
        明治38年3月2日  清国小季保子 上等兵勲八等功七級・朴田勝太郎
        明治39年1月21日 弘前病院    二等卒勲八等・藤井権助 
河内観遭難者 大正7年7月12日 山口県徳山湾 海軍三等水兵・松本徳治

    戦争の時代が遠ざかっているが、煙山村だけでも戦死者がいるのを知ると、野球のプレーや観戦を楽しめる平和に感謝したい。長くずっと続くように。 

         煙山村大字南矢幅の大正期

 盛岡市を距たる3里、東は鹿妻堰で徳田村と接す。西は*南昌山山脈により岩手郡御所村に接す。南は不動村に、北は飯岡村に連なり、東北の一隅は小丘をなして見前村界し西方岩手郡との境を画す。高地であるが鹿妻堰、岩崎川の流域は平坦で主要生産地域。
 大字は広宮沢・煙山・赤林・又兵衛新田・北矢幅・南矢幅・上矢次・下矢次。戸数466戸。人口2973人。学齢児童数551人、小学校は煙山尋常小学校1校。

 1912大正1年7月30日、皇太子嘉仁親王践祚、大正と改元
 1913大正2年3月30日、矢次尋常小学校火災で焼失。11月、新校舎を建設。

 1916大正5年、御即位記念「「紫波郡各村記念事業
     煙山村: 造林。旧稲荷街道並木敷地(約3町歩)に落葉松3000本を大正5年度において間植し、将来の収益は基本財産として蓄積するものとす。
     不動村: 耕地整理および貯水池築造。村内の住民共同して30町歩余の耕地整理をなし、尚10町歩内外の地目変換をなし、一大貯水池を築造し潅漑に便せんと目下計画中。
     徳田村: 小学校舎改築。児童控所(教室?)が30年以前の建築にかかり朽破甚だしくかつ危険の処あるを以て、御大礼記念事業として之を改築せんとす。(『御即位記念事業』1916巌手県内務部庶務課編)

 1922大正11年4月、煙山村立図書館設置。図書数・125。佐藤亀治館長。
 1954昭和29年、<岩手縣盛岡市外煙山ガス田について>本島公司・産業技術総合研究所地質調査総合センター『地質調査所月報. 5 (5)』(国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/)
 
 1955昭和30年3月、紫波郡徳田・不動・煙山3村合併して矢巾町となる。

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2017.3.26毎日新聞「白球を追って」
   “盛岡大付 王者を封印” 盛岡大付5 : 1智弁学園
      「10番」強気で初完投
 盛岡大付・関口監督。(初の8強に)ずっとベスト16の壁を破れずにいたので、本当にうれしい。三浦瑞は期待以上の活躍をしてくれた。

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