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2017年3月11日 (土)

長州人の懐に飛び込んだ会津人、日下義雄(福島県)

 2011年3月11日、東京電力第1原発の3号機が水素爆発を起こした東日本大震災から6年。6年の歳月は小学1年生が中学生、中学生は大学生・社会人と決して短くない。だが今もふるさとに帰れず、困難続きの被災者が多い。他郷で厳しい状況に耐えているのにイジメがある。あんまりだ。どうして、そんなひどいこができる。災難、明日は我が身なのに。 それでも被災にめげず復興に努める人々がいる。

  <被災地に笑顔呼ぶパン――南相馬5年11ヶ月、休まず営業>(毎日新聞)
   避難指示が大半で解除された福島県南相馬市。営業再開後、「地元の人に愛されるパンを作り続けることが復興につながる」と信じ5年11ヶ月間、一日も休まず店を開けている「原町製パン」店の話である。店主の社長と、この春入社する女子高生の明るい笑顔の写真、お店に来る人たちが元気づけられているのが目に見えるよう。

  <雑記帳 「ふるさとカルタ」>(毎日新聞)
   全町避難している福島県双葉町が「ふるさとカルタ」を製作し、初のカルタ大会。
  町の記憶を将来へ残そうと、町民に読み札を募集。寄せられた731件から、方言の「ぬぐい(暖かい)」や名所の「壁画古墳」など46の題材を選んだ。

 ところで、双葉町隣りの大熊町は役場ごと会津若松市に移転している。会津人の祖父母の世代は、戊辰戦争で賊軍となり明治を生き抜くだけでも大変だった。きっと避難さなかの大熊町民に親身でしょう。戦争と原発事故、事情が異なるが自分でどうすることもできない苦境は同じ。違うのはいつ全町民が帰還できるか判らない所。会津は悲惨な目にあったが故郷に住めた。家族を置いて広い世界に出た会津人もいる。会津生まれの日下義雄も中央で活躍したが、同郷人の評価は分かれる。

        日下 義雄  (くさか よしお)

 1851嘉永4年12月25日、岩代国北会津郡若松城下槻木町で生まれる。幼名・五助。父は医師・石田常雄(龍玄)、母は中村はちゑ。 1864元治元年、藩校日新館に入る。
 1868明治1年、鳥羽伏見の戦に参加し.負傷して江戸にかえる。のち大鳥圭介の隊に投じ、榎本艦隊に搭乗して箱館五稜郭に赴き戦いに加わる。
    8月23日、弟和助、白虎隊に加わり会津飯盛山山上で自刃、16歳。
 1869明治2年5月、五稜郭が陥落して江戸に送られ、芝増上寺の寮に収容、謹慎する。

 1870明治3年7月、縁あって造幣寮頭・井上馨の知遇を受け、書生となる。
             大阪英語学校(大阪開成所)に入る。
 1871明治4年2月、アメリカ留学。欧米に赴く岩倉具視特命全権大使一行と同船、清水谷公考・金子堅太郎・中江兆民・山川捨松ら女子留学生など42人と留学。
 1874明治7年2月、帰朝。紙幣寮七等出仕。このころ木戸孝允の知遇もうける。

    ――― ちょんまげから散切り、陣羽織から洋服と急激な変転を見、泰西の文明を吸収して帰朝した灰殻(ハイカラ)は、先ず役人から入って、立身の階段をよじ登ったのである。是れ敗残の会津人が、屈しつつも進むべき、糊口の捷径であったのだ (『時勢と人物』吉野鉄拳禅1915大日本雄辯会)。

 1876明治9年1月、正院7等出仕。5月、議官・井上馨の欧州差遣に随行イギリスへ。滞在中、高木兼寛・馬場辰猪・穂積陳重などの知友を得る。
 1880明治13年10月、帰朝。
 1881明治14~18年、太政官・内務省・農商務省などの書記官・登記法取調局長などを歴任。その間、旧藩主松平家の財政整理に尽力した。
 
 188619年2月、長崎県知事。36歳。4年の任期中、水道敷設、中国水兵暴動事件、火葬場の公定などにつとめ、長崎にコレラ流行などもあった。

 1892明治25年8月、福島県知事(~28年)。このとき内閣は、首相・伊藤博文、内務・井上馨、外務・陸奧宗光、司法・山県有朋らであった。

  ――― 福島県下には自由主義をとるものと、之に反対するものと二政派あり。然るに如何なる事情か両派とも好感情を抱かず、生地会津人においても反目するもの多し。久しく他郷にありて疎遠のなるためか。そもそも郷人の感情を害せるによるか・・・・・・頃日、福島県より上京せる人の話によるに、氏は県下の人望を収めんと欲し、自由党の河野広中氏に通ぜしに、大いに反対党および県民一般の激昂を招き、囂々非難せざるはなしといふ・・・・・・(『地方長官人物評』大岡力1892長島為一郎) 

 1895明治28年、無任所弁理公使となったが、海外派遣の機会がなかった。
 1896明治29年、第一銀行監査役のち取締役。30年、愛国生命監査役。

  ――― 第一銀行は渋澤系の吟行で、その附馬やら何やらが重役になっていて、政治的色彩がない筈だが、唯一人日下義雄といふ代議士が居るので、ちと妙だなといふ感じを与える・・・・・・ 日下は一銀の取締役で、東京貯蓄の専務だ。政治家が本業で、銀行家が兼業のやうに見えるが、目下の所は銀行家が本業だ。由来野心のある男ではあり、身を処するに変通自在の妙を有するから、将来或いは政治家となり、大臣の椅子を狙ふかも知れぬ。若松城下の逐鹿戦に、柴四朗を一蹴した位では、そもそも満足できなかろう(『時勢と人物』)。

 1898明治31年1月、岩越鉄道(磐越西線)取締役。3月、衆議院議員選挙で落選。
 1901明治34年、京釜鉄道専務取締役。京城・釜山を結ぶ鉄道の取締役。
 1902明治35年8月、衆議院議員選挙に当選。 年末帝国議会解散。 翌年選挙に落選。

 1910明治43年、60歳。欧米漫遊の旅に横浜を出航、サンフランシスコ着。諸処を見学、ニューヨークからヨーロッパに向かい、イギリス・ロンドンをへて翌年帰国。
 1912大正元年、衆議院議員選挙に当選。大正9年は落選。
 1917大正6年、会津若松市主宰の明治維新五十年祭に参列。
 1922大正11年11月、麹町区中央邸で稚松会(会長・柴五郎)後援のため、山川浩をはじめ同郷有力者20名が会合。稚松会は会津出身の陸海軍将校の親睦と志願者の奨励のための組織。 この日、会のため各自応分の寄付をし、日下は柴会長より感謝された。

 1923大正12年3月18日、東京本所区向島須崎の自邸にて逝去。73歳。

   参考:『日下義雄伝』中村孝也1928日下義雄伝記編纂所 / 国会図書館デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/

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