仙台縣・烏賊(イカ)大漁・演説会・民情 (宮城県)
東北は、美味しいものがたくさんあって景色がいい所。それに加えて震災以来、福島・宮城・岩手を記事にしているうちに興味がましている。震災以来、応援の気持ちで書いてるつもりが今では励まされ、生意気にもお互い頑張りましょうと声をかけたい。
ところで、3月は卒業・転勤など別れの季節。地元に止まる、県外へ出るなど、各々の道を行くでしょう。息子は10余年前、福島県に転勤。その折、大きな買い物は仙台でと話していた。「勝手知った東京の方がよくないの」というと「仙台の方がいい」。住んでみて地方の良さを実感したようだ。孫たちにも東北は幼い日の心のふるさと。
明治のはじめ「仙台縣」だった宮城県、明治20年代前半まで「今は昔」をふりかえると、官報にイカの大漁がでていた。宮城は気仙沼のフカひれ、蒲鉾が有名だけど、イカも名物なのか。
1871明治4年 <辛未: 仙臺縣自今各縣触頭タルヘキ事>
7月、廃藩置県によって仙台藩の時代は終わり、仙台県が誕生した。登米県大参事だった塩谷良翰参事が県令(知事)心得となり、政府派遣の官僚による地方支配が確立。
1872明治5年1月8日、仙台県を宮城県と改称。
1873明治6年8月、宮城師範学校を旧養賢堂構内に置く。
1874明治7年9月30日、山林原野をのぞき宮城県の地租改正修了。
1875明治8年1月、宮城など東北3県の士族を募り、北海道屯田兵とする。
1876明治9年6月、明治天皇、宮城県巡幸。8月、現在の宮城県が成立。
1877明治10年2月3日、宮城県会開催。
1878明治11年7月、松平正直、県令として着任。明治24年熊本県に転出するまで長く職にあり、近代宮城への転換を一身に担った。同年、河野広中ら東北有志会を開く。
1882明治15年9月7日、仙台城二ノ丸、雷火のため大手門を残しすべて焼失。
1885明治18年3月、県下の政治結社解散。
1886明治19年2月、宮城師範学校生徒の服装を洋服に改める。6月、押川方義ら仙台神学校(のち東北学院)創立。9月、押川ら宮城女学校(のち宮城学院)を仙台に創立。
1887明治20年4月1日、第二高等中学校(のち第二高等学校)創立。
12月20日、東北線 上野・仙台・塩釜間開通。
12月27日官報1350号 ○ 塩釜港溢潮の景況
塩釜港は14日午後2時30頃より満潮となり、同3時頃に至り潮水ますます多く海岸の路上は深さ1尺余の海水横流し、同所水陸運輸会社において損害を被り・・・・・・同港本月初旬より潮水常に高かりしが殊に同日は非常の暴潮にして東方より直ぐに同所へ溢流せしものの如し。
1888明治21年5月、*仙台鎮台、第2師団となる。
*仙台鎮台: 軍団。廃藩置県と前後して計6鎮台を設置。
師団: 陸軍の平時の部隊編制における最大単位。
2月14日官報1384号 ○ 宮城縣烏賊(イカ)大漁
宮城県陸前の国本吉郡沿海に於いて昨夏以来いうべからざる不漁にして、各浜の漁民は非常の落胆をきわめおりしが、幸いに同年9月下旬より図らずイカの群集あり、引き続き12月初旬まですこぶる漁獲おびただしく、漁夫は老幼の別なく、連夜漁獲に従事し、昼は乾燥をもっぱらに務め、余業をたすける遑あらず、二十有余年ぶりの豊漁なるべし。漁民は数旬の困弊もやや回復し愁眉を開くにいたれり。
全部の捕収高6,871,650匹、価は20,614円95銭。乾燥高は3,614,080枚、売り上げは3,614円80銭。
1889明治22年4月1日、市制・町村制により県内は1市19町179村に統合。仙台、市制を施行する。
5月20日官報1764号 ○ 宮城県における演説会
宮城県における本年1月以来の演説会を調査。4月に至りとみに開会の度 数を増し平常に比すれば殆ど3倍以上に及べり
1月 2月 3月 4月
政談演説会認可 2 10 13 32
演題認可 16 73 82 221(解散1)
演説者 11 73 82 221
政談にあらざる演説会 2 2 5 5
1890明治23年7月1日、第1回総選挙。
2月6日官報1979号 ○ 仙台市の民情
宮城県において昨年中、仙台市内の景況を調査するに一般の民情は前年の上京に異ならざれども鉄道開通後、人員出入りの多きと物貨輻輳の激しきとによりその衝をうけ、やや活発の姿をあらわしたるものの如し。
学術に至りては高等中学校設置以来、諸種の公私立学校ニも入学者を増し漸次振起する勢いあり。
宗教は神仏信仰者に盛衰なきも、キリスト教信者に至りてはようようその数を増し、殊に新教の如きは英米諸国より,宣教師来住して布教に従事するため、これに帰依する者もっとも多くその信者は青年子弟にあるものの如し。
市制実施に際して市民は一時党派を結び、おおいに議員選挙の競争を試みたれども、該選挙結了のあとは挙げて新制度の実施に尽力し、さらに確執の痕跡を止めざるものの如し。また年末に至りては衆議院議員の選挙につきややその準備をなすの景況あり。
七八月の間、*条約改正に関し、市民中これを議論する者多く一時演説、建白などを為す者陸続生出したれども10月以降は漸くその跡を絶ちたるもののごとし。
9月11日、非常の暴風雨ありし際、米価一時に暴騰し、従って諸物価も非常に騰貴したるをもって米商その他の商売中一時、奇利を博したる者あれども、市民一般に至りては,疲弊の状態なきにあらず、細民の如きは最も困難を極めたるものの如し。しかれども爾後、ようよう旧態に復し年末に至り、やや活発の景況を見るに至れり。
*条約改正: 幕府が締結した不平等条約を、対等条約とするための明治政府の外交交渉。
参考: 『宮城県の歴史』渡辺信夫ほか1999山川出版社 / 『宮城県の歴史』高橋富雄1979山川出版社 / 国会図書館デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/
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