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2017年4月 1日 (土)

熊本県、野球の明治・大正・昭和 (熊本県)

 熱戦続く平成29年春の甲子園大会。 猛攻で健大高崎をくだし準決勝に進出した秀岳館高校に、4強の壁が三たび立ちふさがった。 鍛冶舎監督「大阪桐蔭相手に2失点は想定内。やはり打たないと。3季連続4強について)壁なんかないですよ。夏につなげたい」(毎日新聞2017.3.31)。 なお、秀岳館の初めは1923大正12年 八代町立代陽実業補習学校開校、2001平成13年秀岳館高等学校と校名変更。
 甲子園大会決勝は大阪同士の対決だが雨で一日順延。試合は延びたが、惜敗した秀岳館をはじめ全国の高校では夏に向けて猛練習の最中でしょう。プロ野球も開幕したことでもあり明治・大正・昭和の野球、なかでも熊本をみてみる。

 ――― 熊本県では明治初年に*熊本洋学校の英語教師リロイ・ジェーンズが野球を伝えたといわれるほど歴史が古い・・・・・・明治27~28年頃には熊本師範で本格的に行われており、30年には熊本商業にアメリカ人教師マーフィーが赴任して野球を教えた。
 正式の創部は熊本商業が明治31年で最も早く、以後33年に中学済々黌(済々黌高校)と八代中学(八代高校)で創部し、同年中学済々黌と熊本商業が対戦している。
        (『高校野球100年史』盛岡浩2015東京堂出版)
   *熊本洋学校: https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/10/post-3598.html

    ♪ 野球
           作歌・高 孝一/ 作曲・入江好次郎(熊本県師範学校教諭)
       開技
一 守るも攻むるも球(たま)一つ 投げつとらへつ はた打ちつ
  源平二手に分かれたる 運動姿の勇ましさ
  味方は投ぐるストライク 敵は走(は)せいるホームイン。

      投手と打手
二 姿勢正しく投げいだす 球はひらめく電光か
  打ち手気をつけストライク 打てや み空に大フライ
  投げ手気をつけ投球(なげたま)に アウトはスリーストライク。

      捕手と塁手
三 飛ぶ電光の其の球を 掴むや球は右手(めて)の中
  投げ手気をつけ走者(ランナー)は 早二塁へと攻めかかる
  斜めに投ぐる其の球を 受けて花咲く第二塁。

      球拾氏
四 フヘヤヒット(フェヤ)の宣告は フライかゴロかダイレクト
  すは油断すなフイルダーよ ショルト(ショート) ベースマン諸共に
  ショルトのがすな其の球を あわてず取れよ よく投げよ。

五 打ち手いらだつストライク 力をこめてよく打てば
  空に消えゆく大フライ 走せよるフィルダーまち顔に
  片頬に笑みを浮かべつつ ミットの音となしはてぬ。

六 走者(ランナー)得意の滑り込み 首尾よく奪ふ第三塁
  いざ是よりはホームイン しかはさせじと挟みうち
  来たりたすけよフィルダーよ ショルトその外 隙あらば。

      見物
七 勇む撰手の腕前を 眺めんとてかすみ渡る
  天(あま)つ み空に鳴く雲雀(ひばり) こゑもさやかに聞こゆなり
  見る人々の其のさまは 手に汗にぎり肩ゆるぐ。

      終結
八 ゲームセットの宣告に 敵と味方の撰手等が
  先の気合いもいづこにか 手握り合ふて打ち語る
  あな面白の遊技やな あな勇ましの遊びやな。
                 (『小学唱歌教材』1903高浜孝一編・三省堂) 

       <作家・上林暁の日記>1922大正11年7月

   ○ 五校(熊本) 対 七校(鹿児島)対戦記
 弁当持ちで応援に出かけた。正門の前には見物のための群衆が門の開くのを待っていた。白草原に整列して応援団が粛々として武夫原に繰り出した時は、広い武夫原も人に埋まって、熊本、鹿児島両市民が分かれて座を占めていた。
 五高軍方の練習も終わる時分、七高軍が繰り出して来た。試合開始。両軍の応援団は熱狂したが両軍とも無為。第七回、それは我等を泣かしむるものとなったのである。筒井が四球二つだし、敵の石関のために強打され、中堅の大島が受け損じて、一挙、二点を入れしめた。あと最大の努力も功なく、薩軍の健児をして名を成さしめたのである。埃の中にうつ伏する選手。無念の涙にしのぶ五軍。凄惨を極めた空気が武夫原をこめていた。戦って破れた。そこには最早動かすことの出来ない被征服者の弱みがあった。

 翌年7月11日熊本駅集合、七高遠征の途に就く。総勢三百に近い。車中新応援歌を習う。太鼓鳴り、歌声響き、酔声窓外雨。錦江湾と桜島の雄姿を見て心躍る。
 四時鹿児島駅着・・・・・・必勝を誓う。12日朝城山に行く。南洲翁(西郷隆盛)の洞窟と終焉の地をみる。いよいよ戦に入る。七校先攻、1点を先取、五高無念。驟雨至りて30分後ノーゲームとなり引き上げる。
                            (「熊本近代文学館報・64号」)

     <昭和6年度対外試合日数>
 熊本師範学校32 中学済々黌15 熊本中1 鹿本中- 八代中3 天草中- 宇土中11 御船中- 人吉中- 九州学院27(うち県外2) 矢部農- 県立商業30 県立工業68(県外8) 鹿本農- 計187。
            (『本邦中等学校野球部ニ関スル調査』1931文部大臣体育課)

    <昭和19年銃後戦記、熊本県の巻>
                     (『銃後戦記.西部編』1944毎日新聞社)
 ――― 金色燦然たる御紋章期輝く・・・・・・第一線将兵の皆さまに肥後路の戦ひ振りを紹介する私は、先づ熊本師団司令部を持つ森の都、熊本市民たちの日常の戦い振りから筆を起こし・・・・・・  ◇追放せよ敵性語 ◇全部が少年兵へ ◇表彰の千人針婆さん ◇球磨川に挑む乙女―――男を第一線や木材、木炭の増産戦線に送りだして・・・・・・筏の女船頭さんに志願して猛特訓を始めた。

 1945昭和20年、戦争で中断した中等学校野球は、敗戦と同時に早くも各地で再開を目指した動きがはじまった。なかでも、8月15日の玉音放送を奈良公園できいた佐伯達夫の行動はすばやい・・・・・・翌21年2月、中等学校野球連盟が創立された。
 1946昭和21年、朝日新聞に「8月15日から七日間、西宮球場で大会を開く」と社告が掲載された。この大家に向けて各地の状況は・・・・・・
  南九州の大会
  南九州の各県は、予選参加校があまり多くなかった。戦前全国的に活躍した熊本県でも予選の参加校は4~5程度しかなく・・・・・・その中で終戦直後に部の再建をはたした中学済々黌が制した。
 ほか県予選には大分県5校、宮崎県4校、鹿児島県10校
 南九州大会は熊本県の水前寺球場で開催され、各県を制した4校が参加、鹿児島商業が優勝して全国大会に進出した。
                 (『高校野球100年史』盛岡浩2015東京堂出版)

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