『福島双葉町の小学校と家族 ~その時、あの時~』 (福島県)
東日本大震災・原発事故から丸6年。被災地から離れていると事の重大さ、復興未だしを忘れがち。何もできないが、せめて会津若松に避難している大熊町の方にお便り。その縁で、『福島双葉町の小学校と家族 ~その時、あの時~』を頂きました。
読むと、生徒と家族はもちろん周囲を思いやりつつ行動する先生、そして双葉町民の困難が胸に迫る。なお、本編紹介のまえに原発建設に至るまでの双葉町をみてみる。
<双葉町の沿革>
二葉南小校舎、清戸迫移転工事中発見された壁画は1300年前の作といわれ縄文式、弥生式の土器など多数発見され(昭和42年)、その他各所に古墳群あり、当地には先住民が定住していた。推古天皇の御代に染羽(双葉地内)信夫、白河に郡衙がおかれ、奈良時代現明天皇の御代、染羽が標葉と改め・・・・・・1492年、標葉氏は相馬氏に滅ぼされ、この地は相馬領として藩政時代に及び、明治の世となる。
1879明治12年、郡区町村編制法により富岡24会所を廃し、楢葉、標葉郡役所をおき双葉郡となる。
1883明治16年、旧小部落を連合組織し新山村外32ヵ村、戸長役場を新山村におく。
1889明治22年、新山村、長塚村、請戸村となる。
1913大正2年、新山村は町村制施行により新山町となる。
1950 昭和25年6月1日、官報:福島県双葉郡上岡村を双葉町とする旨、福島県知事から届け出があった(内閣総理大臣・吉田茂)。
1951昭和26年、県下合併モデル町第1号として新山町、長塚村が楢葉町となる。
1956昭和31年4月1日、双葉町となる。
1958昭和33年4月1日、浪江町の一部、昭和35年、中浜、両竹の一部を合併。
1964昭和39年12月、東京電力福島原子力発電所が双葉、大熊両町に跨がる地内に建設される。町の姿も変貌しつつあり、常磐線が町を横断。
1966昭和41年、国道6号が開通、さらに国道288号も町を東から西に横断して中通り・郡山に通じ、いよいよ発展の基盤が確立された。
1977昭和52年、双葉町は福島県の浜通り方部にあり・・・・・・北は浪江町、南は大熊町、西は阿武隈山系、三ツ森山および十万山の稜線に向かって細長く西に伸び・・・・・・国道6号が町の東部を南北に貫き耕地は前田川流域と国道沿い地帯に水田が多く、畑地は西部に点在し・・・・・・
参考:『福島県の都市計画』1977 福島県土木部都市計画課編(福島県都市計画協会)
2011平成23年3月11日午後2時46分。原子力発電所が双葉・大熊両町に建設されてから47年。東日本大震災の始まりとともに、それまでの平穏な日々が終わった。
2017平成29年5月、震災・原発事故から6年、[道の両側には平地が広がり山間部でもないのに、ひんぱんに「動物に注意」の看板・・・・・・広々と連なる田んぼは、田植えシーズンなのに水は無く、一面雑草におおわれています。かたわらに建つ農家は立派で大きな家が多いのですが、人影がありません](毎日新聞2017.5.18)
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『福島双葉町の小学校と家族~その時、あの時~』 2017 小野田陽子文集
コールサック社(東京都板橋区板橋2-63-4-209 03-5944-3258)
第一章 その時
4.心の中で「こりゃ、だめだ」 ――― 万が一テレビが落ちてきても子どもの方に破片がいかないように教師の事務机でバリケードを作りました。小高い丘の上に立つ双葉北小学校の、三階教室から見える町は・・・・・・。もわ~っと立ち上がった土煙が二階の屋根よりも高くなり、町中を飲み込みました。子ども達には「大丈夫」と言い続けましたが、その光景を見て、心の中では「こりゃ、だめだ」と思いました。
15.ワード?エクセル?一太郎? ――― 手分けして打った避難者名簿は、あとから反省点が・・・・・・先生方がそれぞれ得意とする物で打ったので、あいうえお順や行政区ごとに並べ替えすることができなかったのです。安否確認依頼の連絡が入るたびにみんなで後悔しました。
21.「先生方、家に帰りたいですよね?」 ――― 夜通し働いている先生方や役場の方々。夜に避難してきた娘も、ずっと私の手伝いをしていましたが、夜中の2時を過ぎるとさすがにふらふらになってきました。午前4時頃。校長先生が「先生方、家族の安否は分かったと思うのですが、自宅を見たいですよね。」避難所になっているので、全員が帰られてしまうと大変。①6時間交替で勤務しましょう。②道路状況が確認できるようになったら帰りましょう。2~3時間後に、全町避難になるなど夢にも思わず・・・
23.「緊急放送!双葉町民は、114号線を通って川俣に避難!」 27.いつもなら35分の道 その日は5時間!! 31.「原発が爆発しました。くわしいことは分かりません。どうなるかもわかりません」
47.4月1日埼玉加須市に ――― 役場はなんと、福島県を出て埼玉県に行ってしまいました。・・・・・・主人は、南相馬市の山側にある石神中学校での勤務に戻りました。後でホットスポットが点在していると判明した場所の近くです。住むところはないので校長室や保健室に寝泊まりしていました。義母(82)は体調を崩し入院、義父(90)は足が弱り歩けなくなりました。その中で、わたしが子どもを置いて単身赴任することはできません。今後の勤務がどうなるか分からないまま、埼玉に出発・・・・・・
高速を降りても、道が全くわかりません。カンで走っていると、コンビニに「いわき」ナンバーの車。見失わないように跡を付けていくと、目の前に騎西高校が!校庭に入ると、久しぶりに目にするたくさんの「いわき」ナンバーが、そして、ものすごい人数の報道関係者。そして懐かしい顔、顔、顔。
51.4月1日 旧騎西高校で ――― きちんとしたお別れをしないままだった子ども達とやっと会えました。たった一ヶ月会わなかっただけなのに、なんとなく顔立ちが変わっている子が多く、苦労したんだなと思わずにはいられませんでした。逃げた場所は違っていても、今日まで味わった苦労は、きっとみんな似ている・・・・・・
52.4月の勤務態勢 ――― 埼玉勤務でなくなった先生方は、双葉町の拠点地「ホテルリステル猪苗代」に通うことになりました。
55.家族が引き裂かれている 68.何から手をつけようか 76.やっと帰れる!双葉北小学校一時立ち入り
82.「死にたい」 ――― 久しぶりにくる子どものメールには「先生、今、苦しいの!」突然「先生お元気ですか」なんて送ってくる女の子が多くいました。そんななか、「わたしが生きてる意味はあるのでしょうか。死にたいです。」というメール、すぐに電話しましたが出ませんでした。
「あなたが死んだら、私が悲しい。死んではいけない」というメールを送り、双葉のときの担任にも連絡をとりました。結局後日、「たくさんの人がわたしを心配してくれていた。先生、死ぬっていってごめんなさい」とメールをくれました。
119.心の健康 ――― 「がんばれ自分!」と自分を奮い立たせるのが1年以上毎日続いています。大人も子どももいつまで持つでしょう。・・・・・・ 子どもの世界のこわさを紹介しておきます。ふだんは仲がよい友達は、けんかをすると急に「放射能来るな。」といいます。「おまえ弱そうだな。」と女の子にけんかをふっかけてくる男の子。「女の子を原発ちゃん。」とよぶ男の子。「放射能うつるんでしょ。」と聞く女の子。・・・・・・言われて心に傷を負っても、子どもはすぐに大人に教えません。しばらく我慢して、反撃して、なんとか話せるようになってからやっと「あのね、こんあことあったんだよ。」と教えてくれます。
121.最後に ――― 浜通りの、からっと澄んだ青い空のよく似合う双葉北小学校。この学校に子どもたちの声がもどる日は、はるか先のことだと思います。でも、子どもたちの心の中に、すてきな思い出と一緒に生き続けるものと信じています。
第二章 あの時
町が土煙に飲み込まれた次の日の朝の避難指示。それからどう過ごしてきたかが、小野田家を通して記されている。そしてこの災難は、いつ誰に降りかかるかも知れないのだ。
29.警戒区域に咲く花 ――― 一時帰宅したとき、人のいない薄汚れたゴーストタウン、きれいな色の花が咲いていました。なぜここにいられないかと、無性に悲しくなります。そんなとき、道ばたの花を見ると癒されます。いつかまた、双葉の家のように、一年中、花の咲く庭に囲まれて暮らすのが、今の夢です。
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