維新の勲功ある殿様、長岡護美(熊本県)
5月4日「みどりの日」よく晴れて気持ちがいい。でも、年中休日の身は遠出しない。近所の青葉若葉、もしくは新聞写真、<阿蘇熊本「風吹く草原千年の営み」>で緑を楽しむばかり。ちなみに、写真のコメントは「春の心地よい風が吹きぬける草千里ヶ浜で、朝日を浴びながら草をはむ馬たち」
馬が草を食む向こうに阿蘇の山並みが映えてなかなかだ。かつて訪れた阿蘇の空気までも甦る。あの日、山に雲の影を発見、阿蘇の雄大さに感動して改めて阿蘇の山々、草原を見渡したのを想い出す。
阿蘇の草原、昨年4月発生した熊本地震にくわえ阿蘇噴火もあり維持管理が難しくなっている。でも、観光施設の支配人はめげずに期待していう。
――― 野焼きをして野草の生長を促すことで、今はもっとも緑が美しい季節。観光面での影響は大きいが、地震や噴火も阿蘇の自然のひとこま。ありのままの風景を見に来てほしい(毎日新聞2017.5.4特集)。
さて、熊本の旧綴りは隈本、地名の由来は加藤清正が1607慶長12年に新城に移り、熊本城と称したことにはじまる。熊本の旧国名は肥後、肥後熊本といえば細川家である。藩主・細川斎護の子の長岡護美は、日中両国間の政治・文化交流に大きな役割を果たした。当ブログには珍しいお殿様の登場で幕末から明治、近代日本がかいま見える。
長岡 護美 (雲海) (ながおかもりよし)
1842天保13年9月19日、藩主・細川斎護の五男として熊本城中で生まれる。名は龍之助。
1850嘉永3年、下野、喜連川藩主・*喜連川煕の養子となる。
*喜連川藩: 豊臣秀吉が小田原征伐ののち足利義明の孫に跡を継がせたのが始まり。明治維新後、足利姓に復す。
1854安政元年、護美、養家を去る。
1861文久元年、兄、細川詔邦に代わり、京師警衛の任務を帯び、*学習院に召される。
*学習院: 幕末の公家の子弟のための教育機関。文久2年頃から、少壮公家や志士が集まり尊攘派の温床となった。
1868慶応4年、早くから尊皇攘夷を唱え、公武の間で重視され、参与に任じられる。
戊辰戦争:東北追討の軍に従い、第二軍副総督・議定職心得・下総常陸鎮撫を歴任。
1869明治2年、兄の細川護久に代わり京にのぼり、桂宮警衛を命じられる。
1870明治3年、熊本藩大参事に任ぜられ、熊本54万石の政務をとる。
1871明治4年9月、廃藩置県が実施され、辞職。欧米留学を志す。
1872明治5年、軍務副知事、兵制改革に尽力。同年、アメリカとイギリスに留学、大学で法学を学ぶ。
英京ロンドンの一夜。
月明らかに星稀れにして烏鵲(うじゃく)南飛するさま光景得もいわれず。
長岡先生そぞろに望郷の念に堪えずやありけん。ヂッと月を眺めて深き感慨に沈めるものの如し。従者この体を見て、何事を感じ居玉ふやらんとその側に進み寄れば、従者を見返りつつ「アレ見よ、倫敦(ロンドン)の月も矢張り円いもんじゃの」
異国のはてまで同し秋の月 いづくに角の影や見すらん
(『赤毛布:洋行奇談』熊田宗次郎編1900文禄堂)
1879明治12年1月、帰国。麝香間伺候(宮中における家族と官吏功労者の優遇資格)、外務省勅任御用掛を拝命。細川家の遠祖・藤孝氏の祀を継ぎ、長岡監物と称る。
1880明治13年、宮島誠一郎(栗香)らの提唱で興亜会が設立され会長となるも、特命全権公使としてオランダ・ヘイーグに駐剳、ベルギー・デンマーク両国公使を兼ねる。
1882明治15年6月、任期満ちて帰国。元老院議官、高等法院陪席裁判官を兼ねる。
1884明治17年7月、華族令により男爵となり、のち子爵。
*華族: 公家・諸侯を合わせて華族とし、のち軍人・実業家など国家的勲功者も加えられた。1947昭和22年廃止。
1890明治23年、第三回内国勧業博覧会事務委員。
1891明治24年、子爵となる。
1894明治27年7月、日清戦争はじまる。
1895明治28年、華族会館総代として征清軍人慰問使として遼東半島を巡回。
1897明治30年、子爵の互選で貴族院議員となる。
――― けだし君維新の勲功を以てすれば、旧公卿大名に於いて三条・岩倉・徳大寺・伊達・池田諸侯に次ぎ、藩士出身の名士に対すれば、西郷・木戸・大久保などの人に功を斉しうす、以てその人と為りを知るべし(『立身致富信用公録.第13編』1903国鏡社)
189831年2月、東亜同文会が結成され副会長となる。
1900明治33年5月、清国に赴き、李経芳・張之洞ら要路の人々と交歓。
同年10月、『雲海詩鈔』上下巻発行。「雲海」は長岡の号。
国会図書館デジタルコレクションにあるが、漢詩漢文で書かれ筆者には手に負えない。読み解ければ、幕末・明治好きには知りたい情報が詰まっているが、現代人にとって漢詩漢文は外国語同然、惜しいが割愛。
1904明治37年、日露戦争はじまる(38年9月、ポーツマス条約)。
1906明治39年4月8日、死去。
人となり春風駘蕩、寛厚長者の風格が備わっていたから、中国人側の信望も厚く、当時の両国間の政治・文化交流に果たした役割は大きいといわれる。漢詩のみならず、和歌もよくした。
参考: 『明治漢詩文集』1983筑摩書房 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂
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