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2017年6月 3日 (土)

法律学者・弁護士、菊池武夫(岩手県) & 陸軍軍人、菊池武夫(宮崎県)

 当ブログは近代日本から題材を得ているが、人物の境遇や立場をみるうち時に往時の世間に漂った不安感を感じることがある。その不安な空気、思い過ごしかも知れないが、よみがえりそうな気配で落ち着かない。そんな思いを抱きながら、『岩手の先人100人』を開いていたら、<中央大、法政大の創立者>法律学者で弁護士の菊池武夫の名があった。
 よい人物がいたと資料にあたると、官報に名があるのはいいとして、「天皇機関説・美濃部達吉を攻撃」というのがある。あれッ、同じ人?どうもおかしい。人名事典をみると学者と軍人、二人の菊池武夫が並んでる。そして、学者の菊池がアメリカ留学に出発した年、軍人の菊池が生まれており、生地は東北と九州に分かれる。明治維新後とくに、生地が賊軍となってしまった東北、政府軍についた側かが運命を分ける。家柄もまたであるが、それらを含めて二人の菊池武夫をみてみたい。

      菊池 武夫 (岩手県

 1854嘉永7年7月28日、旧南部藩、目付役町奉行また用人役をつとめた菊池仙助(のち長閉)長男として生まれる。幼名・香一郎。
 1865慶応元年ころ、藩校・作人館で学び、藩儒、*江幡五郎(那珂通高)の指導を受け、門下生になる。
     *江幡五郎: 那珂通高、梧楼とも。儒学者で吉田松陰や木戸孝允と親交があり、同藩・明義堂の教授で幕末の志士。
  けやきのブログⅡ<東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県>
  
 1868明治元年、14歳。戊辰戦争がおこり、家に帰る。
 1869明治2年、学問をしたく身一つで東京にでる。麻布の南部藩邸に身を寄せ、南部英麿に近侍すること1年余。英麿が帰国することになり武夫もやむを得ず帰郷。
 1870明治3年、英麿の兄、南部利恭の近侍となり藩の修文所で学ぶも、官費上京を命ぜられて上京。
      伊藤庄之助について英語を学ぶ。推薦で南部藩の貢進生として大学南校(東大の前身)に入る。開成学校と改称され、新校舎に移り寄宿舎に入る。もっぱら法律学を学んだ。同じく勉学に熱心な同期生に法律学者・鳩山和夫がいる。
 1875明治8年7月、文部省留学生に選ばれた11人の一人として法律研修のため渡米。ボストン大学で一年半、全科卒業。法律*得業士(卒業者証)の称号を受ける。なお引き続き憲法議院法を研究、ボストンの裁判所に入り、訴訟実地および代言(裁判)事務などを講習して1880明治13年アメリカを去る。
     *得業士: 得業生。欧米大学のバチェラーを模したものと思われる。

 1880明治13年10月、イギリス・フランス両国を視察し帰国。11月、司法省出仕。
 1881明治14年2月、代言人(弁護士)試験委員となる。12月、東京帝国大学(開成学校)法学部講師を兼務。
 1882明治15年2月、代言人試験委員。
 1884明治17年9月、司法少書記官として記録局翻訳課詰め兼民法局詰めとなり、大学法学部学生の指導官に嘱託され、以後数回に及ぶ。
    菊池ら洋行帰りの新進教授たちは大きな西洋カバンを抱えて人力車に乗って大学の講義に向かい、学生たちはそのさっそう振りに憧れたという。

 1885明治18年7月、判事登用試験委員。
    法学科志望の学生が多くなったのと法学教育の普及を痛感、同志と図って東京府神田錦町に英吉利立法律学校(のち中央大学)を創立。
 1886明治19年3月、33歳。山田顕義司法大臣の秘書官となるもわずか1ヶ月で文書課長に転じ、正6位を授けられた。この転出は薩長閥で固められた内閣に学者として、南部藩出身として仕えにくかったらしい。4月、判事会理事員。民法草案編纂委員。
 1887明治20年3月、検察官会理事員。法律家のうんちくを傾け、厳正公平な検察官として国民の信頼を博するよう求めてやまなかった。8月、山田司法大臣北海道および奥羽巡視随行。11月、司法省文官普通試験委員。
 1888明治21年5月、わが国における最初の法学博士。鳩山和夫・箕作麟祥(水沢出身)ら5人とともに学位をうけた。

 1889明治22年、英吉利法律学校を改称して東京法学院(のちに和仏法律学校と合併し法政大学と改称)を創立。公務の余暇は常に東京法学院講師として教授、後進の法学教育に情熱を注いだ。
 1891明治24年、司法省身民事局長となったが、官を辞し弁護士となる。要路筋や庶民や会社・官庁など依頼が引きも切らずであった。菊池の法廷弁論は簡潔無比、一の美辞麗句も用いず30分以上に及ぶことがなかった。また、多忙な身であったが、一方で法典調査編制に努め、わが国の法体系整備に寝食を忘れて打ちこんだ。
     12月22日、貴族院議員に勅選され、死去するまで在任。
 1894明治27年、『古代法』東京法学院27年度第3年級講義録。 
 1899明治32年、『沿革法理学』東京法学院32年度講義録。
 1903明治36年、法律学校を東京法学院大学と改称。のちの中央大学、学長となる。官途を去ってから自ら学院長や学長を引き受け、教官も東大その他、訴訟実務にたずさわる者を招き、充実につとめた。中央大学に進む者も多く、また、昼間働きながら夜間の講座を聴講する勤労学生もふえた。司法試験合格者も高率であった。

 1912明治45年7月、創立から院長・学長まで28年間も関係し、心労のあまり肺患におかされ大学の卒業式に倒れ、死去。59歳。中央大学市ヶ谷キャンパスに胸像。

   ――― 人となり温厚にして才敏、弁舌明確、一言にして人よく之を了す。また常に人に語りて曰く、法律は元と実地応用の学なるに学者おうおう空理に失して、之が適用如何を顧みざる者あり。あに又戻らずや(『帝国博士列伝』)
    

      菊池 武夫 (宮崎県)

 1875明治8年7月23日、中世以来の肥後国の名族、菊池氏の家に生まれる。父は旧米良領主・菊池武臣。明治なって家族に列せられ男爵。
    学習院中等科・陸軍幼年学校
 1896明治29年、陸軍士官学校卒業、7期。
 1897明治30年、歩兵第23連隊付少尉。34年、陸軍大学校入校。
 1904明治37年、日露戦争に中隊長として出征。
 1906明治39年、陸大卒業後、第16師団参謀、第64連隊大隊長、歩兵第11旅団長などを歴任。
 1924大正13年、奉天特務機関長。
 1927昭和2年、予備役となり、勤労連盟をはじめ右翼団体に関係。
 1931昭和6年、貴族院議員

 1934昭和9年、商工大臣中島久万吉が雑誌『現在』に執筆した「足利尊氏」に中島が「逆賊」である尊氏を礼賛しているとして議会で糾弾し辞任に追いこんだ。
 1935昭和10年、当時の憲法学の通説だった*天皇機関説を攻撃、その先頭にたった。
    *天皇機関説: 国家は法人であり天皇はその最高機関であるとする憲法学説。美濃部達吉の著『憲法撮要』などが代表的。
     菊池は軍人出身で法律学の専門家ではなく、天皇機関説の趣旨を全く誤解して東京帝国大学法学部教授・美濃部達吉を批判した。その結果、美濃部は貴族院(勅選議員)から追われた。

 1939年和14年、第8回伯子男爵議員選挙に落選。
 1941昭和16年、亜細亜大学の前身となる興亜専門学校を設立。初代校長と運営母体の財団法人興亜協会の初代理事長を務める。
 1945昭和20年敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部よりA級戦犯容疑で逮捕。
 1947昭和22年8月、不起訴処分となって釈放。
 1955昭和30年12月1日、80歳で死去。

 

   参考:  『岩手の先人100人』1992岩手日報社(菊池武夫の項・遠山崇) / 『コンサイス日本人名辞典』三省堂/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男編 / 『帝国博士列伝』萩原善太郎1890敬業社 /http://kindai.ndl.go.jp/ 国会図書館デジタルライブラリー 

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