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2017年7月29日 (土)

O-1グランプリと大熊町の昔(福島県)

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 「O-1グランプリ」聞いたことありますか?会津若松市に避難している大熊中学校の生徒たちによる漫才大会です。先だっての毎日新聞の記事で知りました。
 泣いたり笑ったり感情をあらわにした後、ほっと一息つけたりする。でも、笑ってすっきりの方がいい。そこで大熊町の*武内教育長は、中学生の漫才講座を考えたのです。発想はすてきだけど「どうやって」と思ったらプロに指導を頼み、でもネタは生徒自身の創作で発表会「O-1グランプリ」を催したのです。大会は大成功、その様子は次をごらんになると、明るい笑顔にこちらまで癒されること請け負い。
“大熊町立大熊中学校(H23~29)花は、咲く” http://okuma2012.seesaa.net/

        “福島原発事故・全町避難『大熊町 学校再生への挑戦』武内敏英著”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/09/post-d1a3.html

               **********

        “大熊町の幕末明治、中村藩領大野村・熊町村
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/03/post-c261.html

            <大野村

   諏訪神社
         由緒。 永禄年間信州諏訪城主・諏訪頼重の子・頼定(玉林房)の勧請にて、境内広く老樹多く、相馬藩主崇敬の神社にして社領五斗五升。

    玉林し黄金の枝葉穂に出て、行く末なかく湧きいつるかな     読人・玉林房

   大山祇神社
           由緒。 長享年間、相馬盛胤、標葉一郡を領したるとき勧請。
   宮渡神社
   八幡神社
         由緒。 天保年間この地開拓に際し、農民撫育のため勧請。

   勝善神社
         由緒。 天慶年度、平将門公、関東の平野に敗れ、その末女・滝夜叉姫父の像を背負い、六部行者巡礼の姿に身をやつし、奥州に下り、一草庵を結びこれに奉仕致しました・・・・・・尊像を巡礼観音とも飛附(とびつき)観音ともいう。その尊像は衣冠束帯の平将門公である。

             伝説。 ある夜、村吏よそより帰るとき、飛び付きたい飛び付きたいという者がある。人、この声を聞いてこの付近を通る者が途絶えました。村吏、酒の勢いをかりて「よし飛びつけ」と、ところが金光燦爛、中空を駈けり、この村吏に飛びつきました。さすがの村吏も興さめて逃げ帰り、明くる朝ここに到れば右の尊像であったから、さっそく神殿を作り崇敬致しました。
 いったい勝善とは道祖神の尊名でありますから、将門公の尊像を合祀され、同時に祭神の入替をしたのであろう。神徳を馬病とあるを見るときは、馬匹優待せる将門公の霊祀を主とせしことは争われぬ事実であります。

   
  
            熊町村

   諏訪神社
       由緒。 口碑に元亀年間、松永久秀、難を避けこの地に隠栖し、この社は松永家の氏神なりといえども、これを詳らかにすることはできない。
 「元中村県管内郷社村社区別」に「諏訪神社 式外氏子40戸 熊川村鎮座、祠官・相良越彌」

       末社。 雷神社・田農神社・山神社・東照宮
       境外末社。 八坂神社・稲荷神社

   初發神社
         由緒。 相馬氏標葉郡を領するや、南境の鎮守として妙見大明神を勧請し、地方住民の心を鎮めた。ゆえに旧号・妙見大明神
 藩政当時は毎年3月21日五穀成就の祈願、22日は長塚にてこれを執り行いました。 1870明治3年、初發神社と改称。同16年、社殿を改築。 同25年、子爵相馬順胤公参拝。
1940昭和15年3月、崇敬者一同の寄進により、石華表(いしのとりい) が神前を飾るにいたった。

       末社。 秋葉神社・須賀神社・稲荷神社・山神社・御塚神社

   愛宕神社
       由緒。 治安2年、土地の豪族・椿原氏勧請。社地は川に沿って海近く、かつ高台にして老松繁茂し、風景頗る佳なり。

   天照大神神社
   津神社・山神社・田農社

   羽山神社
   青麻神社


   山神社
      由緒。 「元中村県管内郷社村社区別」に第一区村社。

   山神社
      由緒。 伝説に曰く岡田氏の氏神なりしよし。岡田氏は不明なれども妻は山の神の化身なりと、山ノ神を勧請。
   塞神社

   海渡神社
        由緒。 祭神は猿田彦神にして船玉の神を祭った。
   大和久神社

   助宗明神
       由緒。 藩公の命により潅漑用として小良ヶ浜に堤を築かせた。工事の担当係・新妻助宗、検査の役人が計画を理解せず、「堤の水が海に注ぐ」と誤解し、新妻に弁解の余地を与えず切腹させた。しかし、堤の水は田地に注ぐようになっていた。恩恵を被った幾十人が新妻を明神と崇め、死去の日を祭日と定め、赤飯を作って記念(まつり)とした。

   参考:『相馬郷土神社とその由緒・巻之4部(旧標葉郡)』1942相馬郷土史研究会

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