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2017年7月15日 (土)

道路県令・藤村紫朗 (熊本県・山梨県)

 「東洋文庫」(平凡社)は昔から大好きな文庫。為になって面白いと思うが、読者が少ないというからもったいない。東洋文庫の棚の前にいて宣伝したいくらい。先日はアーネスト・サトウ『日本旅行日記』全2巻を借りた。幕末に書記官として来日したイギリス人でオールコックやパークス公使を助けて活躍したのを知る人も多いだろう。サトウは日本人でも難解な書物を読むなど日本研究家としても有名、また仕事とは別に旅行し登山もして日記を残した。参考までに旅行日記・第1巻から足跡を記す。

 1. 富士山麓で神道を勉強 1872明治5年
 2. 新緑の大菩薩峠と甲州の変革 1877明治10年  
     「山梨県令・藤村紫郎(紫朗)の活躍」の項で、サトウはしきりに藤村紫朗と甲州人の活躍に言及し、当地方の目覚ましい変革に注目している。その藤村は「道路県令」と評される。土木県令といえば三島通庸が良くも悪くも名高い。藤村の場合はどうか。
 3. 悪絶・険路の針ノ木峠と有峰伝説 1878明治11年
 4. 赤岳登山から新潟開港場へ 1880明治13年
 5. 秘境奈良田から南アルプス初登頂 1881明治14年

        藤村 紫朗

 1845弘化2年3月1日、熊本藩士・黒瀬市左衛門、母・登千子の二男。
 1858安政5年、同藩の菅野太平の養子となり、名を嘉右衛門と改める。
    ?年  上京して尊皇攘夷運動に加わる。
 1863文久3年、志士として国事に奔走、八月十八日の政変後、七卿落ちに同行。
 1864元治元年、禁門の変。脱藩して長州藩に加わって戦う。また、王政復古のクーデターに呼応、大和十津川郷士の紀州高野山挙兵にも参加。
 1868慶応四年2月12日、御親兵会議所詰。3月、浪士取締のため軍房局に出仕。
   閏4月、徴士・内国事務局権判事となり、三河国裁判所に出勤。同年8月軍監。

 1868明治元年、維新を期に藤村紫朗と改める。
        維新政府の徴士となり官職を歴任。戊辰戦争へ出陣。
 1869明治2年3月、監察司知事。9月、兵部省出仕。
 1870明治3年1月、京都府少参事。翌4年11月、大阪府参事。

 1873明治6年1月、*大小切騒動で免官となった土肥県令の後任に県令として赴任。
     *大小切騒動:だいしょうぎりそうどう 東山梨郡97ヵ村の農民の反対闘争。

    藤村は4月「区戸長公選法」を発布。公選させた上で任命する方式をとり人心掌握につとめた。さらに、殖産興業計画を布告、区長総代理・学区取締総理の2名を県庁に詰めさせ、地元の名士の協力を得て興業政策を実行。
 1874明治7年、県令に昇進。開港場の横浜に通じる道路整備のため、民費による道路改修。甲州街道・青梅街道など主要な幹線道路に馬車通行可能な改修工事を行った。
   甲府錦町(甲府市中央)に山梨県製糸場を設置、明治36年まで稼業。
   日野原開拓。巨摩郡日野春(北杜市、当時は日野原)の荒野は以前から開拓が企図されていたのを、藤村は移住者を募集して開始。
   養蚕伝習所、外国人教師による養蚕技術の普及を図った。
   文明開化の施策として甲府市街の整備に着手し「藤村式建築」とよばれる「擬洋風建築」を推進。洋風の小学校を建設し就学を推進する一方、陋習打破と称し道祖神風習など伝統行事や祭事などへの抑圧を行った。

    アーネスト・サトウ「日本旅行日記」より

  ――― (山梨県令)藤村は中年の陽気な太った肥後の男で・・・・・・県令は私に土地で獲れた葡萄を使った甲府産のワイン数本とブランデーを、ワイン製造者でかつ本屋の木山清一に持たせて送ってよこした・・・・・・村の役人がお茶を飲みながら話をしようと招いてくれた。彼は県令が学校や道路、橋などの建設に熱意を示していると評価していた・・・・・・ 1箱12セントの「月の滴」(葡萄入り菓子)、生きた田螺を買った(明治10年4月)。

 1877明治10年5月、興業政策は成果をあげる一方で民費負担が県民の負担をまねき、事業計画を提出するも黙殺される。
 1880明治13年、明治天皇の甲州・東山道巡幸。政府は土木費の国庫補助金を全廃。
 1881明治14年、松方財政によるデフレーションで県内の製糸業は打撃をうける。

 1883明治16年7月24日、北村透谷、単身富士登山に出発。途中2泊し頂上に至る。

  ――― 吾はもとより貧しき書生にあれば、馬車や車の贅沢は吾身の分にあらず (中略) 苦あれば楽の世のならひ、上りのつらさに引き変えて、すらく下りる筆の墨、やがて大原(小原)へと着にける、神奈川県下の街道は、横道よりも猶ほ狭く、道路県令は山梨県の藤村氏、山梨県下に入りてより道ハバ広く整ひて、活発なる工業のいまはかどれる、その様をしたしくみては、感慨の胸に切(迫)りて、談るべき人もなく、杖を此世に任すのみ・・・・・・(1885「富士山遊びの記憶」) 
   

  ――― 藤村県令は若くして甲州に赴任し、近代洋風建築様式の学校を設置して教育の普及をはかるとともに、製糸・水晶加工・ワインなどの産業の振興につとめた。更に道路・橋梁を整備して都市計画の先鞭をつけるなど、さまざまの分野で甲州の目覚ましい変革をうながした。藤村式建築の一つの建物は、増穂町民俗資料館として一部が残されており、正面入口の車寄せ、二階正面のベランダ、らせん階段、太鼓堂など特色ある遺稿となっている。
  甲府に勧業試験場を作るとともに葡萄酒醸造所を設立しワインの本場フランスに留学生を派遣するなどの指導をした結果、本格的なワインの開発が緒につくに至った(『日本旅行日記』)。

 1886明治19年、地方官官制の発布により藤村は初代山梨県知事となる。
         邸宅に6人の子供と妻(珊)、母の家族8人と生活していた。
 1887明治20年3月、14年間在任した山梨から愛媛県知事に転任。

 1888明治21年、公金流用疑惑で東京へ召還され、潔白を主張して辞任。
 1890明治23年9月、貴族院勅選議員に任じられる。
 1896明治29年、男爵。熊本県内における実業界にも携わる。
 1908明治41年1月4日(5日とも)、死去。63歳。
    1875明治8年に建てられた擬洋風建築、睦沢小学校校舎を移築復元した「藤村記念館」が甲府駅北口に開館している。

   参考:  /『日本旅行日記 1』アーネスト・サトウ著・庄田元男訳1992東洋文庫 /『北村透谷集』1907講談社/ https://ja.wikipedia.org/wiki/藤村紫朗 http://www.tsugane.jp/meiji/school/gakkou/shirou.html 津金学校 / https://kotobank.jp/word/ コトバンク藤村紫朗 / 峡陽文庫 http://kaz794889.exblog.jp/11190154/ 

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