« 道路県令・藤村紫朗 (熊本県・山梨県) | トップページ | O-1グランプリと大熊町の昔(福島県) »

2017年7月22日 (土)

古老が語る、上野戦争(官軍と彰義隊)

 上野界隈で買い物や飲食すると小冊子『うえの』(上野のれん会・毎月発行)をみかける。記事が充実し、動物園・美術館・博物館の催し物案内もうれしい。
 2017平成29年の今年は明治150年にあたり、5月号に「上野彰義隊百五十回忌墓前法要」の案内。一般の焼香台も設けられているとあったが知るのが遅く惜しかった。彰義隊墓所は西郷さんの銅像のあたり。
 上野の戦いが終ると隊士の多くは投獄され、死罪となった者もあるが、獄中にあって寄せ書きや日記を残したり、生き残ってエピソードを語り継ぐ者もいた。それらを『幕末百話』『面白い日本歴史のお話』『うえの・上野彰義隊と墓所の一五〇年』からあげてみた。それにしても戦争に負けると死者を悼み墓を建てるさえ大変、どんな戦争もしてはならない。

     <幕末維新の話
 今(昭和4年)より30年前の家庭には、幕末の古老が、どこの家にもごろごろしていた・・・・・・幕末維新をまのあたり見聞して、廃刀から丸腰、ちょん髷から散切(ざんぎり)、士族の商法、お長屋住い、お扶持米、殿様の栄耀、官軍と彰義隊、薩摩邸焼討で溝渠に生首がころがっていたこと、町に朱に染んだ死骸の辻斬り、各藩士大騒ぎのお国入り、安政の大地震、道具一式の投売、物価の安かったこと等、すべて幕末維新の話で持切っていた。

     <彰義隊の編制
 一橋家の随臣・渋澤成一郎天野八郎らの同志17人、明治元年2月12日を以て、江戸郊外雑司ヶ谷の茗荷屋に会合し、誓書を作って主君慶喜公の冤辱を雪がんため身命を抛つべく約束した。第二回30余人、三回67人となり、浅草本願寺を屯所として集団を彰義隊と名付け・・・・・・慶喜の水戸謹慎とともに、渋澤は武蔵飯能に振武軍を組織したので、代わって本多邦之輔が頭取となり屯所を上野東叡山に移し・・・・・・隊員500余人となり、さらに遊撃隊・歩兵隊・砲兵隊・純忠隊・臥龍隊・旭隊・萬字隊・神木隊・高勝隊・松石隊・浩気隊・水心隊があり、合計1500余人、各々部署を定めて江戸市中を巡回した。

     <上野戦争(官軍と彰義隊)
 彰義隊をはじめとする旧幕府残党と新政府軍との間の戦争。
 鳥羽・伏見の戦で敗れた徳川慶喜が海路、東帰するや、一橋家家臣は失地回復をはかり、同志を糾合、彰義隊を結成。謹慎中の慶喜を警護するため上野に屯集した彼らは、慶喜の水戸退去後も上野に立て籠もり続け、しばしば新政府軍の兵士たちといさかいをおこした。このようななか、軍務官判事・大村益次郎(靖国神社に銅像)は彰義隊の討伐を主張。
 1868明治元年5月15日、ついに彰義隊討伐に踏み切る。戦争は兵力と火器に優る新政府軍が一日で勝利を収めた。

     <上野山門に屯集の賊徒ども
 上野の戦争が敗れ、彰義隊討死となって、吾々は敗亡すると、イヤモウ広い江戸が三日間というもの燧箱(ひうちばこ)のように狭くなってしまった・・・・・・自分は尽忠隊の一人で・・・・・・スワ戦争が始まったというので斬出したが、たちまち敗北。
  [芋坂上の関門]
        官軍は「三日間切捨御免」 こいつは溜まらぬと、三河島村へ行く・・・・・・さすがに一夜囲(かく)まってくれた家もある。秣小屋の臭い裡に匿れ、握飯をもらって食った時の旨さといったら、今に忘れやしない・・・・・・官軍の関門をきりぬけ
  [一人一両相場]
     谷中天王寺出で、親戚を辿ると真っ平と断られ・・・・・・腹が減ってならないから、居酒屋へ入りかけると、官軍の人夫どもの話「俺ァ今日は二つでヤッと二両にありついた」というのが正しく脱走兵を捉え、一人一両の相場らしい。脚が進むもんじァない・・・・・・
  [露見して捕縛] 
     空腹を抱え、両国へ懸かると、またもや関門・・・・・・三日目に彰義隊が下谷入谷町で再挙を図ると聞出し尋ねて・・・・・・尽忠隊の知った顔もいて函館へ落ちる協議が纏まる。ソレには榎本(武揚)の船に乗って往こうとのことで、品川へ三々五々落行く際、同所で就縛され、首桶まで出来上がったのに、「御即位につき脱走の者一切斬る事ならず」との太政官の御沙汰で、助命となって・・・・・・イヤモウこの三日間といったらお話にならない命懸でした。

     <1869明治2年、多くの隊士は赦免となったが、ここからが地獄
 多くの徳川方武士と同様、隊士たちは生活に困って徳川家を頼り駿河へ移動した。しかし減封された徳川家には扶養能力がなかった。隊士の中で抜け駆け仕官事件があって血の粛清も起こり、隊士たちの評判はすこぶる悪かった・・・・・・
 世の中で彰義隊の評価は、主君徳川家への忠心から義に散った武士というひいき目な見方と、動乱期に一旗揚げようと集まった烏合の衆というさめた見方がある。いずれも誤りではないだろう。

     <1874明治7年、政府から墓建立の許可
 小川椙太(のち興郷)は、赦免され彰義隊の大義をのべる文書を書いたり、天野八郎を卑怯者とす芝居の脚色に抗議したり、山岡鉄太郎から仕官を誘われても断った。
 彰義隊の墓の建立と維持管理はほとんど借金であった。できた唐金の墓碑塔は借金の片に持ち去られ、興郷は貧乏暮らしをしながら墓の再建にあたり、半生を墓守に捧げた。

     <彰義隊戦死者
 火災が鎮まった後、箕輪・円通寺の僧・仏磨が神田旅籠町の飾職問屋、三河屋幸三郎(三幸)と相談のうえ官許を受け、上野山王台の塵溜で火葬にし、その骨を円通寺に葬った。しかし、死骸全部を焼き尽くすことができなかったから、残った死骸は塵溜の中に埋葬した。上野山王台にある彰義隊の墓がそれである。なほ、1917大正6年に至り、彰義隊の戦死者が浅草区榮久町西福寺にも埋められたことがわかった。

     参考: 『幕末百話』篠田鉱蔵1996岩波文庫 /『面白い日本歴史のお話・伝説明治・大正の巻』中村徳五郎1922石塚松雲堂/ no.697『うえの』小川潔2017上野のれん会/ 『大国史美談・5巻』北垣恭次郎1941実業之日本社

|

« 道路県令・藤村紫朗 (熊本県・山梨県) | トップページ | O-1グランプリと大熊町の昔(福島県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 古老が語る、上野戦争(官軍と彰義隊):

« 道路県令・藤村紫朗 (熊本県・山梨県) | トップページ | O-1グランプリと大熊町の昔(福島県) »