日本一の編集長、佐藤北江 (岩手県)
どうやって人物を選んでるの? 福島・宮城・岩手・熊本・その他、地域順は決めているけど人物は県史類・新聞記事・たまたま読んだ本などいろいろ。時に一週間があっという間に過ぎ更新日の前日「どうしよう」もあるが、多様な人材を紹介するのが楽しくてやめられない。今回の佐藤北江、『岩手の先人100人』で<日本一の編集長>と冠しているが筆者は初めて聞く名前。日本一というからには著名人と交流も多かったと思われるが、知られてないのはどうしてか。そして調べてなんとまあ・・・・・・今まで採りあげた岩手県人と深い縁がある。それも一人二人ではない。関連ブログを文末に纏めたので時間があればごらんください。ところで、今、署名記事は珍しくないが昔は次のようで、それもあまり知られなかった理由の一つのように思われる。
――― 『新聞』というマス・メディアの内側にのみ身を置く言論人として、当然のことながら、文才豊かな文筆活動のほとんどが、無署名の記事、論説にそそがれ、個人の著作としてのものが世に残されなかったためである(同岩手の先人)。
佐藤 北光 (さとう ほっこう)
1868明治元年12月22日、南部藩士・佐藤貞吉、さめ子の長男として盛岡に生まれる。
本名・真一。号の北江は、北上川の大沢川原の地に生まれ育ったゆかりによる。
写真: 『石川啄木と朝日新聞』(編集長佐藤北江をめぐる人々)より。
1873明治6年、5歳で父を失う。
旧南部藩士は戊辰戦争で最後まで朝敵となって戦い続けたから明治初期の苦境は察してあまりある。そこへ父親が亡くなったから、母と祖母(原敬の母リツと親しかった)は北江を厳しく養育した。北江はそれにこたえ神童と称せられ優秀だったが、病弱だった。
?年 盛岡小学校。
1880明治13年、岩手県尋常中学校(のち盛岡一高)英語科に入学。
1882明治15年、同校化学科。当時、同校には友人の*横川省三・太田達人らがいた。
中退。虚弱体質のため中退。漢学を南部藩儒者・川上玄之に学ぶ。漢文漢学はのちの仕事に役立つ。
また、*求我社内に設けられた書籍展覧所で、東京で発行された書籍や新聞を読んだ。
1883明治16年、自由党系*「求我社」に加盟。機関誌で*鈴木舎定編集『*盛岡新誌』に民権論をさかんに寄稿。内容と文章とも認められる。
1884明治17年12月、16歳。『巌手新聞社』(のち岩手日報社)記者となる。文才・気骨は注目を集め、入社まもない記者・西岡独酔の懇望によって記者として入社した。
1885明治18年10月25日「岩手新聞」に北江の文名を高めた記事<日本鉄道会社の鉄道線路>を掲載。鉄道敷設の便利さを情理を尽くして説き、岩手県鉄道誘致を訴えた。
1887明治20年、上京。*伊東圭介・*鵜飼節郎の推挙で、自由党星亨主宰の『自由燈』(のち『めざまし新聞』)記者となる。さらに同社発行の『公論』などの記事を兼ねて、激しい政治記事に才筆をふるう。
1888明治21年7月、新聞主催の星亨らは下獄し、同社は村山龍平に買収され『朝日新聞』と改題され、北江はそのまま朝日新聞に入る。はじめは記者として活動、やがて編集の実力を認められ編集者となる。以後、27年間『東京朝日新聞』の編集方針を確立した名編集者として、その道一筋を貫く。
主筆の*池辺三山も北江には一目おいていた。また原敬が 「郷里の青年などはだいぶ佐藤君にかぶれて居る者も多く」というほど慕われ、北江もまた器が大きく、郷党の後輩に物心ともに援助を惜しまなかった。
1909明治42年4月、困窮する石川啄木に請われて朝日の校正係に入社させ、のち啄木を選者として<朝日歌壇>を創設。薄幸な啄木の生涯や文学に基盤を与えた。
手が白く 且つ大なりき 非凡なる人といはるる男に会ひしに (啄木)
1910明治43年4月6日、社が組織主催した第二回世界一周会に同行、アメリカ・ヨーロッパへ出発。35回に渡る特派員記事を本社に送った。出発は、
――― 総勢57名、西村天囚・佐藤北江・岡野告天子・清瀬規矩雄4名の社員が付き添い1万4千トンの地洋丸に乗船して神戸を解纜・・・・・・ワシントンでタフト大統領に会見後、ニューヨークを経て欧州に・・・・・(朝日新聞小史)
半輪の月檣頭にあり 大西洋浪路安らかに 吾が船走る (北江)
一同が敦賀に帰着したのは7月6日であったが、北江はヨーロッパで一行と別れ、シベリアから満州(中国東北地方)の視察に赴き、8月9日同郷の志士・*横川省三が軍事探偵として非業の詩を遂げた、哈爾賓(ハルビン)郊外を弔い、紀行文「哈爾賓の夕照」を涙して記す。
草黒しくづれんとする雲の峰 夏草や日は春くに虫啼かず
1911明治44年、朝日新聞新組織。編集部長・論説選定委員筆頭を兼任。なお、調査部長・杉村楚人冠。
――― そのころ東京朝日の社説は、松山忠二郎・佐藤真一(北江)・杉村楚人冠・渋川玄耳らが分担し、三名の委員が事前に内閲してから掲載することとなり、佐藤・松山・渋川が検閲委員にあげられていたが、傍若無人の渋川は原稿の検閲にもとかく自説を固執・・・・・・渋川は退社してこの問題は解決した・・・・・・ 池辺三山引退後は松山忠二郎が編集部内統率の任務を負い、営業部の相談役として社の経営にもたずさわり、すこぶる多忙であった。ことに名編集長の聞こえ高かった佐藤真一の死後は、いっそう重圧が加わった。
1912明治45年4月13日、石川啄木死去。葬儀にさいし佐藤北江と啄木の親友・金田一京助の二人がはじめから終わりまで面倒をみた。
1914大正3年10月30日、喉頭癌のため東京の額田病院で死去。享年47。
11月 1日、朝日新聞編集長・佐藤北江の葬儀、東京青山斎場にて小崎弘道・霊南坂教会牧師のもとに行われ青山霊園に葬られた。葬儀に朝日新聞専属作家・夏目漱石も出席、のち『硝子戸の中』に北江の回想を書いている。
盛岡市先人記念館に、北江の写真や本などが飾られジャーナリストの先駆者として紹介されている。
参考: 『朝日新聞七十年小史』1949朝日新聞社/ 『岩手の先人100人』1992岩手日報社 / 『石川啄木と朝日新聞』(編集長佐藤北江をめぐる人々)太田愛人1996恒文社 / 『現代日本文学大事手展』1965明治書院
*横川省三: “明治の志士・日露戦争の軍事探偵、横川省三”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/07/post-5867.html
*求我社: “東北の自由民権 鈴木舎定(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/08/post-545a.html
*伊東圭介: 自由民権家弁護士、伊東圭介と煙山八重子(岩手県)
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-d748.html
*鵜飼節郎: “ 時は回る(西南戦争・自由党・立憲政友会)鵜飼節郎(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-984b.html
民権派教師・若生精一郎とその兄・若生文十郎 (宮城県)
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-4044.html
*池辺三山: “ 明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-1350.html
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