努力的天才の日本画家、堅山南風 (熊本県)
コンサートや展覧会に行くとたちまちその世界に引きこまれる。会場を後にするとき、昂揚して自分もがんばろうと思ったりする。こうした楽しみをもてるのは平和だからこそ、戦争中はそうはいかない。若くして死去した洋画家・松本竣介は戦時において時代にあらがいつつも、自己を主張し画業につとめた。それよりずっと早く生まれ、長生きした日本画家・堅山南風は戦時をくぐり抜け、画境を熟していった。洋画・日本画、夭折・長命、生き様・出身地どれも対照的である。そこで前回は松本竣介だったので次に堅山南風をみてみる。
堅山 南風 (かたやま なんぷう)
1887明治20年9月12日、熊本市坪井立町で生まれる。堅山武次郎・シゲの3男。
家は祖父の代から鬢付け油、蝋燭の製造、卸小売の裕福な商家であった。
母、明治21年落雷のため死去。父、明治26年病没。以後、祖父母に養育される。
1894明治27年、日清戦争。壷川小学校、明治33年高木高等小学校入学。
1900明治33年、家業が傾き高等小学校中退。家業を手伝いながら漢学塾で学ぶ。
1902明治35年、15歳。熊本の物産館で開催された日本美術院展覧会を見にいき、横山大観・菱田春草の画風に感銘をうける。
1904明治37年、日露戦争始まる。17歳。生家が破産し、まもなく祖父も死去。
1905明治38年、熊本に設置された赤十字社臨時救護班に勤める。図書館で絵画を模写する。
1907明治40年、地元の家庭新聞に勤めたち、挿絵を描いたりして上京資金を作る。
1909明治42年、日本画家・山中神風にともなわれて上京。その紹介で同郷の歴史画家*高橋広湖に入門。南風と号す。この年から文部省美術展覧会(文展)に出品したが、4年続けて落選。
*高橋広湖 (1875明治8~1912明治45年)
画家。画家の父・浦田雪翁に雲谷派を学び、21歳の時上京。のち、もと名妓・今紫の養子となり、高橋姓となる。
――― 旅から旅をし熊本の興行中にまだ二十歳になるかならずの旅絵師が、ぶらりと部屋に遊びに来たのを今紫はたいへん気に入り「何かひとつ書いてくれないか」というと、その絵師は、今紫が得意の出し物「京人形」を写生しました。それが上手にできた所から、いよいよ気に入って「わたしの養子になってくれないか、そうすれば東京へ連れて行って、お前さんの好きな師匠をとらして、勉強させるから」若者は大いに喜んでついに親に縁切りをして東京へ(『名妓今紫物語』1914日清書房)
広湖は松本楓湖の弟子となり、1907明治40年、「蒙古襲来図」を博覧会にだし銀牌を得る。歴史画に長じ、巽画会の重鎮として活躍した。
1911明治44年、巽画会に「弓矢神」を出品、三等銅賞を受賞。広湖の代筆として報知新聞連載「徳川栄華物語」の挿絵を描く。浅草永住町に下宿。
1912明治45年4月、巽画会展に「みちのべ」が入選。
6月2日、師・高橋広湖37歳が病で急逝。後任として報知新聞の挿絵を続ける。
1913大正2年、文展で「霜月頃」が初入選。審査員だった横山大観が強く推薦し二等賞を受賞。作品「霜月頃」は郷里の旧藩主・細川護立侯が買い上げ、以後、庇護を受ける。
1914大正3年、横山大観に師事し、大観らが日本美術院を再興すると、再興院展に「日和つづき」を出品して入選。
1916大正5年、自作50余点の展覧会を開く。この年、西巣鴨町に移転。
11月、画業に新境地を求め、細川侯の援助を受けてインド旅行に出発。カルカッタに滞在して風物を写し、博物館で仏像を写生する。
1917大正6年、帰国。この間、カルカッタ・デリー・ダージリン・ボンベイ・エレファンタ石窟インド各地を訪れる。9月、院展に「熱国の夕べ」を出品して入選。
1918大正7年、画業に行き詰まって健康も害し、神経衰弱となる。弓道をしたり身辺の草木鳥魚の写生に没頭したりして大正11年、ようやくスランプから立ち直る。
1923大正12年9月1日、関東大震災。第10回院展も初日に影響を受ける。
1925大正14年、長岡の人の依頼により供養心こめて『大震災実写図鑑』三巻を制作。
上巻: 前兆・大地震・大地決裂・列車転覆・凌雲閣悲惨・呪ノ火・大紅蓮・運命極マル・劫火急迫。
中巻: 竜巻・火水ノ難・霊顕・避難ノ群集・赤イ太陽・不安ノ一夜・失望ト疲労・市中ノ混乱・貼札ヲ着タ銅像・応急手当・餓タル罹災者・涙ノ同情(一)(二)。
下巻: 自警団・劫火ノ跡・災後雑感・剽盗横行・無常ノ雨・復興ノ燭光・淋シキ月・諸行無常・大悲ノ力。最後に「慈眼視衆生福聚海無量是故応頂礼」の経文が書いてある。
1926大正15年、聖徳太子記念奉賛美術展覧会「讃春舞」を出品。小石川の細川邸内に転居。
1930昭和5年、ローマで開催された日本美術展に「水温」「朝顔」「巣籠」を出品。
1935昭和10年、東京府美術館10周年記念現代総合美術展、院展などに出品。
西沢笛畝・松本姿水・酒井三良らと研究会伸々会を結成。
1938昭和13年、奥村土牛・木村棲雲・山口華陽らと丼丼会を結成。文部省美術展覧会(新文展)の審査員に委嘱される。
1940昭和15年4月、「千里壮心」福岡日々新聞社から第一回福日文化賞送られる。
7月、京都市で初めての個展を開催。「飛雪」など10点を発表。
1942昭和17年、日本画家報国会軍用機献納作品展に「春瀬」を出品。
1943昭和18年、全日本画家献納展に「薫風」を出品。夏に眼疾を病み院展に不出品。
1945昭和20年6月、山梨県山中湖畔旭が丘に疎開。近くに、横山大観・安田靫彦も住んだ。
8月敗戦。9月帰京。平和の到来とともに、南風の目は身近な花・果物・鯉などにそそがれる。以後、日本美術展覧会(日展)、院展などにかずかず出品。審査員も委嘱される。
1955昭和30年~196742年
「M先生」(武者小路実篤)出品(熊本県立美術館蔵)
深川富岡八幡宮に大額「鯉」を奉納。浅草待乳山聖典本龍院本堂の天井画・大杉戸絵を完成。日光輪王寺本地堂天井画「鳴龍」完成。熊本市民会館の緞帳下絵を制作。
「肥後椿」――― 深紅のものと刷毛目染め分け花の二株を手にいれ庭の一隅に栽培し、その花を愛観した・・・・・・私の花鳥画製作の中で最大の努力をしたものである。
1968昭和43年11月3日、文化勲章を受賞。翌年、熊本市名誉市民となる。
1972昭和47年、熊本市蘇峰記念館のために「徳富先生」を制作。
1974昭和49年、佐賀県基山町中山真語正宗瀧光徳寺のため「弘法大師像」「教祖像」。
1975昭和50年、88歳。米寿を記念、門下の松尾敏男を伴いタヒチへスケッチ旅行。
1976昭和51年4月、タヒチの旅から――堅山南風近作展を開催。
画壇・九州の人脈展に「壁画と花」「肥後椿」を出品。
1977昭和52年、「追おく」――― 齢90に及んで、母を想うヒューマンな深さをたたえる作品、画人南風の美しい心、その純な芸術心の大きさに、何とも言えない感動が走るのを禁じ得なかった(河北倫明)。
1978昭和53年、91歳。東京・大阪・熊本で堅山南風自選展開催、68点を展示。
1980昭和55年12月30日、静岡県田方郡函南町の別荘で急性肺炎のため死去。93歳。
開けて1月、日本美術院葬として葬儀告別式。絶筆は「清香富士」。
――― (南風)画伯によれば、自分は凡才だが、画業は宿命である。自分の道はこれしかないので、たとえ上手な絵描きにはなれなくても、自分の器量だけのものを描こうと考えてやってきたという。つまり「知足安分」である。足を知り、分に安んじる・・・・・・その上に磨き出された天衣無縫ともいうべき無邪気の作境であったと理解している(河北倫明)
参考:『現代日本画全集・堅山南風』細野正信1983集英社 / 『アサヒグラフ別冊美術特集・堅山南風』1983朝日新聞 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂
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