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2017年8月12日 (土)

「生きてゐる画家」 松本竣介 (岩手県・東京府)

 8月6日広島・8月9日長崎は原爆の日。両日の間の8月8日、2017年全国高校野球大会が阪神甲子園球場で開幕。大会二日目、岩手県・盛岡大付属が連覇を目指す栃木県・作新学院に競り勝った。9回表、作新学院2死満塁のピンチをしのいだエースの笑顔がまぶしい。連覇の夢が初戦で消えた作新学院エースは「実力のなさ」と受け止めつつも「甲子園は自分の力以上を出せる場所。どんな形でも、また戻ってきたい」と前向き(毎日新聞2017.8.10)。

 平和であればこそ戦場にかりだされず、球場で熱戦を繰り広げられる。勝敗は命を左右しない。負ても奮起すればいい。ところで近ごろ物騒なニュースが流れ、「孫が戦争に駆り出される日が来やしないか」。仮にもこんな心配する日が来るとは夢にも思わなかった。
 いざ戦争となれば、兵士はもちろん戦時下の人々は平穏無事ではいられない。太平洋戦争のさなか、良心をよりどころに体制に押し流されまいと懸命に生きた画家、松本竣介がいる。その生涯をみてみよう。

          松本 竣介 (まつもと しゅんすけ)

 1912明治45年4月19日、*東京府北豊多摩郡渋谷町青山で、父・佐藤勝身、母・ハナの二男・俊介として生まれる。のち1944昭和19年「竣介」と改める。
    *北豊多摩郡渋谷町青山: 東京都中央部の旧郡名。現渋谷区。
 
 1914大正3年、2歳で父の仕事の都合で岩手県花巻町に一家で移住。父は宮沢賢治と交流があり、竣介も影響を受けた。
 1920大正9年ごろ、小学3年で本籍地の盛岡市に移転、上京するまでこの地で成長。
 1925大正14年、県立盛岡中学校に入学するも間もなく脳セキ髄膜炎で難聴となり、エンジニア志望をあきらめる。中学2年の時、父が買ってくれたカメラや油絵道具一式で、写真や写生画に熱中する。
 1927昭和2年、盛岡市内中等学校スケッチ競技会に出品、二等一席に入選。

 1928昭和3年、学生服姿の自画像を描いたが、再び自画像を描くのは1940昭和15年以後。[顔] [画家の像] [立てる像] などを描き、人物表現、人間の顔への関心を高めている。

 1929昭和4年2月、盛岡中学を退学して3歳年長の兄・彬とともに上京。太平洋画会に入所。
     モジリアニに深く傾倒し、友人らとてアカマメ・アトリエをつくり懸命に勉強。
 1931昭和6年6月、機関誌『線』を創刊。技巧至上主義的空気からの脱却を唱える。
 1934昭和9年2月、ピカソ・セザンヌ・ルオー・マチスなどフランス画壇の作品が一般公開された<福島繁太郎コレクション展>で実物を目にして、芸術作品が完成するまでの道程とは 「自分で発見しなければならない、教わることのできない道」であることを自覚。

 1935昭和10年1月、NOVA美術協会展覧会に出品、推薦されて同人となる。
   9月、22回二科展に[建物]を出品して初入選。画家として歩む決意を促す。
 1936昭和11年春、松本禎子と結婚して改姓。
     当時活動していた成長の家から身を引き画業に専念する。父や兄も成長の家を離脱
    デッサンとエッセイの月刊誌『雑記帳』を編集発行。自らも毎号のようにデッサンやアフォリズム(警句)を寄稿した。

     <『雑記帳』
   雑記帳は計14冊発行され執筆者は、宮沢賢治の生前未発表原稿を紹介した森惣一など盛岡中学の同窓生たち・中野重治・村山知義・中条(宮本)百合子・窪川(佐多)稲子・武田麟太郎・尾崎士郎・上司小剣・亀井勝一郎・秋田雨雀・柳原白蓮・林芙美子など多数。
デッサンを寄せた画家は猪熊弦一郎・鶴岡政男・石井鶴三・鳥海青児・安井曾太郎など多数。

 1937昭和12年、『雑記帳』は正面から権力に向き合う雑誌ではなかったが、「時節がら余り突っ込んだことは書けず、ごく概念的なものになることは仕方がなかったと思います。しかし意は充分に汲みとることができるでしょう」。戦時色とともに特高警察の訪問となって脅かされ、資金繰りも行き詰まり12月号で廃刊とする。竣介の絵の大半は、『雑記帳』廃刊後、死去するまで10年の間に描かれる。

 1938昭和13年9月、第25回二科展に[](大川美術館蔵)を出展。
     []: 都会の全景を見渡すような視界の広がり、建物群と労働者、若い娘、整列した兵士の行進などをモチーフにブルーの濃淡で抑揚づけされた野心的作品で注目された。新しい質の幾何学的な直線が駆使され、画家としての新たな展開となった。

 1940昭和15年、第27回二科展に出品、[都会]特別賞。
    10月、画家としての自立を遂げ、銀座・日動画廊で初めての個展を開く。

 1941昭和16年、[(東京駅裏)](神奈川県立近代美術館蔵)。今の東京の街からは姿を消した煙突や電信柱が描かれている。屹立する縦の線、垂直な軸として描く東京の街、ほかの洋画家たちが気付くことのなかった東京の「美しさ」を見いだしている。
    『みづゑ』1月号に軍人達の座談会<国防国家と美術>戦時下の画家の協力を積極的にすすめようという座談会が掲載される。竣介はヒューマニズムの立場から反発して投稿、その原稿「生きてゐる画家」は『みづゑ』4月号に掲載された。原稿用紙20枚ほどの内容は、戦争を推進する勢力の圧力に対して、人間と芸術家の名において必死のプロテスト(異議)を行ったものという。繊細な松本が、良心をよりどころとして体制に押し流されまいと懸命にいきたのである。
   同年5月、盛岡市で友人の舟越保武と二人展を開催し30点出品し、好評であった。
   同年9月、二科展に[画家の像]を出品し、会友に推薦される。

 1942昭和17年2月、「議事堂のある風景」(岩手県立博物館蔵)を第二回個展に出品。
 1943昭和18年、「新人画会」結成。靉光(あいみつ)・麻生三郎糸園和三郎ら8人。
    翌年にかけ三度のグループ展を開き、風景画を発表するが、メンバーも次々と応召し、戦局も悪化するなかで作品発表に機会が失われていく。家族を妻の郷里である松江市に疎開させ、兄の紹介で理研科学映画動画部に勤め、相次ぐ空襲の中で遺書を書いた。

 1945昭和20年、終戦を迎え、ゼンソク、栄耀失調の身ながら開放感を味わう。
 1946昭和21年1月、「全日本美術家に諮る」と題し美術家組合を提唱した文書を画家や知識人に送った。また、衰弱した体で「三人展」(麻生・舟越)のため制作に励み、[少年像]など秀作を生んだ。
 1948昭和23年、発熱を冒して未完成の[彫刻と女](福岡市美術館蔵)、[建物](東京国立近大美術館蔵)を、5月25日から開催された第二回美術団体連合展に出品した。

 竣介はモジリアニ、ルオー、ピカソ、グロッスら多くの西欧画家の影響を受けているが、日本的な描線をいかした清澄な叙情的な美しさに特徴がある。代表作品に[A夫人] [黒い花](岩手県立博物館蔵)などがある。<色と線の画家>と呼ばれた竣介独特の色調と描線は、多くの愛好家を魅了している。
 若くして世を去った竣介は、その作家生活を通じて多くの新傾向に対面し、若々しい感受性を動揺させた。美へのあこがれが純粋であればあるほど苦悩も多かった・・・・・・美術評論家森口多里は宮沢賢治と同質の芸術性を指摘している。

 1948昭和23年6月8日、持病のゼンソクの悪化により死去。36歳。

   参考: 『岩手の先人』千葉瑞夫1992岩手日報社 / 『アバンギャルドの戦争体験』小沢節子1994青木書店

        **********

 2018.6.20 毎日新聞夕刊より
     <松本竣介のアトリエ再現目指し資金集め>群馬・大川美術館
――― 早世した人気画家、松本竣介のアトリエを再現しようと、群馬県桐生市の大川美術館が資金集めのクラウドファンディング(CF)を始めた。目標金額は500万円で期間は7月末まで。
 同館は松本作品をコレクションの柱の一つにしており、代表作の「」(38年)をはじめ約60点を所蔵する・・・・・・
  

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