将軍侍医のち軍医監、石川桜所 (宮城県)
“修復の音、魂を揺さぶる”(2017.8.3毎日新聞)を読んだ。仙台の東側の海に突き出た七ヶ浜町の東日本大震災で津波に襲われたグランドピアノの話。
修理を願う人があって、海水をかぶったピアノの修理業者はなかなか見つからなかった。あきらめかけていたところ、難題に心意気をみせる職人がいて修復作業をなし遂げたという。ピアノの保管先、七ヶ浜町の中央公民館で公演が企画されているという。きっとその音色は聴く人の心にしみいる。
修繕というだけでも技術がいるが、楽器の修復となれば感性とか心技といったものも大切にちがいない。それを持ち合わせた人が手がけると、音が甦る。がれきの上に置かれていたピアノが甦った七ヶ浜町から北へ、内陸の登米郡、そこで生まれた将軍の侍医、石川桜所をとりあげてみた。人に優れた医術と心術で幕末維新の動乱をのりこえ、明治維新後の医界に貢献した人物である。
石川 桜所 (いしかわ おうしょ)
1825文政8年4月8日、陸奥国登米郡桜庭村(宮城県登米市中田町)に生まれる。父は漢方医・雄仙。通称・玄貞、実名・良信。初め千葉三安と称した。
1839天保10年、14歳で江戸に出て伊東玄朴に西洋医学を学び、さらに長崎でオランダ人からは蘭学を学んで技術を習得。
1857安政4年5月26日、日米下田条約。下田奉行とアメリカ総領事ハリスとの間で調印。日米両国貨幣の同種同量交換、領事裁判権などを規定。翌年、締結の日米修好通商条約の先駆をなす。
ちなみにこの年、ロシア使節プチャーチン、長崎に来航、退去、再来す。
1857安政4年~安政5年、江戸の種痘所教授となる。
○ <お玉ヶ池種痘所: 安政四巳年八月 川路左右衛門尉(川路聖謨)>
種痘所建設の費用を拠出せる人名:箕作阮甫・竹内玄同・林洞海・坪井信道・坪井信良・伊東玄朴・*大野松斎・・・・・・石川桜所などなど、江戸に門戸を張る蘭方医80余名。
*大野松斎:“日本種痘はじめ、お芋の松斎先生(秋田・江戸浅草)”
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○ 伊豆下田の駐日総領事タウンゼント・ハリスが発病、重態に陥り、伊東玄朴の養子で蘭方医・伊東貫斎に従いハリスの治療にあたる。
1862文久2年、仙台藩医員、養賢堂洋学方勤仕となる。幕府奥医師に登用される。
将軍慶喜から「桜所は医国の才」と信頼を置かれ、単に人を癒やすだけでなく、医国の才ありと激賞され*法印に叙さる。
1866慶応2年12月、*法眼に叙され香雲院と号す。
*法印・法眼: 中世以降、医師・仏師・画工・連歌師などに授けられた位。
1868慶応4年~1869明治2年(箱館戦争)、戊辰の役(戊辰戦争)。
桜所、蟄居する徳川慶喜に従い水戸にくだり、仙台に帰る。
――― 1868明治1年9月、仙台藩が降伏すると、藩の要職を占めた「勤王・降伏派」は、官軍に敵対した「俗党・主戦派」狩りをはじめた。藩の旧指導者・但木土佐・坂英力の官軍引渡をはじめ、戦争の理論的指導者、大槻磐渓、将軍侍医で藩の蘭医・石川桜所、玉虫佐太夫らを逮捕した(『郷土史事典・宮城県』)。
桜所は1年余り入獄。獄中の憂さを鎮めるため『養生訓』を著す。
松島に隠遁中、ドイツの医学者・クンツエの内科書を訳述。
1871明治4年、松本良順に招かれ兵部省軍医寮の次官、のち陸軍軍医監にすすむ。
1876明治9年、軍医寮に出仕して同僚の石黒忠悳、また京都の林洞海(大阪医学校長など歴任)が自分と同じクンツエの医書を訳していると知り、『内科簡明』を三人共訳として発刊。『内科簡明』は、明治初期の医学界に、ドイツ医学の優秀さを知らせた最初のもので、わが国の先駆をなした。
?年、 病のため職を辞し、駿河台 香雲閣に退く。
1882明治15年2月20日、死去。57歳。谷中霊園に葬られる。
詩文を善くし、諸大家にも評され、死後、『香雲閣詩鈔』と名付けて出版された。 現在は、中田町の国道346号線沿いにある碑が桜所の偉業を伝えている。
参考: 『宮城縣史 29』1986宮城県 / 『郷土史事典 宮城県』佐々久編1982昌平社 / 『ハリス伝』カール・クロウ著1966東洋文庫 / 『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店
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