明治の肥後熊本(熊本県)
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場さ 船場山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉でちょいとかぶせ
博物館や資料館には他館の案内があり持ち帰るが棚に置きっぱなしも多い。先日、整理していたら10年前の<熊本県歴史資料保存講演会>パンフレットがあった。
――― 歴史資料は私たちの先祖のたどった歩みを物語り、まちづくりや災害に備え・・・・・・地域の将来を考える際の貴重な歴史遺産です。しかし、古文書所蔵家の世代交代や家屋の新築、市町村合併・役所での毎年の廃棄等に伴い、急速かつ大量に散逸・滅失しており、その保存は一刻の猶予もならない切実な問題です。
主催は熊本県立図書館だが、全国どこでも重要と思う。活字離れの現状をみれば、古い資料保存は容易ではない。そのためにも息長く、子どもを本や歴史好きにしよう。熊本市立図書館では、子ども読書活動の一環として<おはなしボランティア養成講座>を開催し好評とか。
熊本・子どもときて遥か昔、東京の下町で歌っていた♪あんたがたどこさを思いだした。歌の最後♪ちょいとかぶせでボールをスカートに入れるが、今時の女児はスカートとは限らない。何といってもマリつきを見ない。時の過ぎるのは速く、安穏でも混沌していても容赦ない。今はそれに加え、有り余る情報が不安をかきたる。ところで幕末・明治160余年前は如何に。『熊本県の歴史』年表から見てみよう。
1852嘉永5年12月、矢部郷の惣庄屋・布田保之助、通潤橋の工事に着手(2年後竣工)
俗に益城郡浜町の眼鏡橋という通潤橋は、轟川横断し橋上を人馬が往来、潅漑用水を通ずる通水路を有する大石橋。両岸の地形をみて、その技巧に驚かないものはなく、工学知識の幼稚な幕末にあたり、よくも架けたるものかなと敬服しないものはない(『近代日本文化 恩人と偉業』通潤橋架設の大恩人・布田保之助翁1941北垣恭次郎)。
1862文久2年11月、熊本藩主弟*長岡護美、勤皇派40人を率いて京都の警備につく。
“維新の勲功ある殿様、長岡護美(熊本県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/05/post-eea2.html
1864元治1年6月5日、京都池田屋事件。志士、宮部鼎蔵(益城郡田城村)は新撰組に襲われ自刃した。ちなみに弟・宮部春蔵は禁門の変に従軍、天王山で真木和泉らと自刃。
1868明治1年1月、熊本藩はじめて藩議を勤王一途に定める。
1869明治2年1月、津軽藩への援兵350人を乗せたハーマン号、房総沖で座礁。肥後藩士200余人溺死。6月、版籍奉還で細川韶邦、熊本藩知事。
1871明治4年7月、廃藩置県で藩が廃され、熊本県・人吉県が設置される。
1872明治5年6月14日、熊本県、白川県に改称。同18日、明治天皇、白川県へ行幸。
1873明治6年1月、鎮西鎮台、熊本鎮台(軍政機関)に改称。6月、天草郡崎津村で徴兵令反対一揆。12月、熊本鎮台で暴動起きる。
1874明治7年、熊本師範学校開校。9月6日、『白川新聞』創刊。
1876明治9年1月30日、熊本バンド結成。花岡山で奉教を盟約したプロテスタント集団。熊本洋学校で米人ジェーンズに学ぶ生徒たちで、横井時雄・浮田和民・金森通倫・海老名弾正・徳富猪一郎(蘇峰)ら35名。多くは同志社に加わる。
徳富蘇峰: のち民友社を創立。『国民之友』『国民新聞』を創刊し、平民主義を唱えた。三国干渉を機に国家主義に転向。著書『近世日本国民史』など。弟は小説家・徳冨蘆花。小説『不如帰』で名を知られる。
“世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本) ”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/02/post-ea3c.html
“山口千代作(福島)、金森通倫(熊本)、新島八重(福島)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/04/post-45de.html
同10月、神風連の乱(敬神党の乱)おこる。秋月の乱・萩の乱とともに新政府の開明政策に反対した士族の反乱。
1877明治10年2月~9月、西南戦争。2月、熊本城天守閣炎上。
1881明治14年9月、佐々友房ら紫溟会を結成。民権運動と対峙する。11月、実学派、立憲自由党結成。
1882明治15年2月、相愛社・慈愛会・立憲自由党が合体して公議政党結成し、その主唱で自由党系の九州改進党を組織。
1884明治17年、熊本での民権勢力は県政に於いても紫溟会を圧倒していたが、同年の県会議員半数改選により勢力は逆転。定員44人、紫溟会31人・九州改進党11人。
1889明治22年1月、国権党結成。4月、市制町村制施行により熊本市成立。
1891明治24年7月、九州鉄道、熊本まで開通。熊本電灯会社開業。
1899明治32年4月、ペルーのカリヤ港にペルー移民の最初、日本人790人を乗せた佐倉丸が到着。それから23年後、河内(熊本市)の藤森直数一が森岡移民会社の契約移民として渡った。ペルー大統領アルベルト・フジモリ(昭和13年生)の父である。
1901明治34年4月、立憲政友会熊本支部結成。立憲政友会総裁は伊藤博文、地主層を中心に支持を得る。のちの大正期、原敬総裁の時、本格的な政党内閣を組織。
1907明治40年6月20日、『熊本評論』発刊。
1908明治41年11月、日本窒素肥料株式会社、水俣で操業開始。
ちなみに、1956昭和31年5月1日、水俣病公式発見。同34年、水俣病の原因は有機水銀であると熊大医学部研究班結論。
1911明治44年1月、*大逆事件で松尾卯一太・新美卯一郎刑死、佐々木道元・飛松与次郎は無期懲役。
*大逆事件:明治天皇暗殺計画の容疑で逮捕された社会主義者・アナーキストらが大逆罪で起訴。自白以外の証拠がないまま大審院判決で幸徳秋水ら12名が処刑された。
1924大正13年8月1日、熊本市電操業開始。11月27日、熊本上水道完成。
参考文献: 『熊本県の歴史』松本寿三郎ほか1999山川出版社ほか。
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