学者木に登る、リンゴの神様・島 善鄰(岩手県)
以前、縁があって「安行植木と農業ノート」の冊子を作った事がある。近代史に詳しい郷土史家に切り花、苗木、生産・耕地・水利・農事などの組合、植物検査所など80項目をあげてもらって、とりかかったものの近所の図書館には資料がない。今と違ってネット検索など思いもよらず市史編纂室や県文書館、国会図書館に通うしかなく、カードをめくって資料や冊子を選び、閲覧請求した。
まあ、その甲斐あって新聞・広報誌で紹介されたが、なんといっても自ら調べ発見、歴史の楽しみを知ったのが為になった。それがライフワーク『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』につながったし、今もなお、とある人物の伝記出版を準備している。
さて、ブログを書こうと岩手県の産物をみていたら苹果がでてき、懐かしくなった。「安行植木と農業ノート」を執筆中、果樹苗木「苹果」がリンゴと判るまでだいぶ日数がかかったから。また「綿虫・害虫駆除」と併せて<安行村青酸ガス燻蒸室>が思いだされた。
――― 安行は明治期になってわが国有数の苗木生産地として知られ、国内はもとより海外へも輸出する・・・・・・東北地方から購入した穂木と一緒に「綿虫」が移入し大被害を・・・・・・農商務省は埼玉県農事試験場に補助金を交付し、安行村に青酸ガス燻蒸室を設け・・・・
<岩手県リンゴ栽培のはじまり>
苹果(リンゴ)の岩手県移入は、明治5年、盛岡の横浜慶行ほか二人が、北海道函館から苗木5株をもち帰りその庭園に栽植したのがはじまり。
同7年、東京青山試験場より苗木が送付され、成績が意外に良く市民が争ってこれを植栽。同9年、県令・島惟精が大いに苹果の好適地なるを認め苗木を養成したり。
同11年頃より栽培ますます盛んになり、盛岡市付近を中心として各郡に亘るに至る。
明治13~14年頃、中野村の古沢氏が中野小学校の校庭にリンゴを植栽して成功し、盛岡市場に出品したが買う者がなかった。そこで東京で販売をしたがまだ商品化は十分ではなかった。県農事試験所の奨励もあって同村の瀬山・石川氏らも始め、岩手県リンゴ産業の先駆となった(『岩手をつくる人々・近代編』森嘉兵衛1974法政大学出版会)。明治16年苹果品評会を開くに至り、東京市場において声価を挙げてきたが、その後、綿虫(右図)の大襲来を受け殆ど全滅せるに近く、産額を減じた。
明治22年、島善鄰が生まれたころ、リンゴの栽培の中心は紫波郡で次は和賀郡、稗貫郡(島の父の本籍地)であった。
明治26年、組合を設け栽培害虫駆除予防および販路に関する事項を研究。害虫の蔓延甚だしく盛岡市岩手郡稗貫郡みな綿虫の襲来を蒙るために一頓挫を来たし、少数栽培家は品種の淘汰と被害樹の伐除をもって面目を更新しえたり。
明治28年頃、一時販路の減少をみたり 同年の八、九月頃研究事に当たり農事試験場の技師指導 或いは視察員を派してこれを脱回したり。
参考: 『奥羽北海道実業視察報国』茨城県実業視察団T3大森賢/ 『最新案内モリヲカ』勝又太郎1923新東北社/ 綿虫の図『果物の話』横井時敬M36冨山房
島 善鄰 (しま よしちか)
1889明治22年8月27日、島忠之の二男として広島市で生まれる。父の忠之は検事を長年勤め、本籍は稗貫郡矢沢村高木16-84(花巻市)
6歳のとき、叔父・忠邦の養子となり矢沢で少年時代を過ごし、高木小学校卒業。
?年、 養父の勧めで岩手県立盛岡農学校に進学。盛岡中学校(盛岡一高)に進むが、自分の思うようにならず宮城県立仙台第一中学校の5年生に編入。
1908明治41年、東北帝国大学札幌農科大学(北海道大学)入学。
1914大正3年、東北帝大札幌農科大学卒業。同年秋、恩師・星野勇三博士に認められ助手に任命される。初代総長で同郷の*佐藤昌介に「月給取りというものは、先月の収入で今月を賄う覚悟を持たねばならね」といわれた。佐藤も島も、赤貧洗うがごとき生活であった。
*佐藤昌介:“北海道大学育ての親、佐藤昌介とその父、佐藤昌蔵(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/10/post-ae0c.html
1916大正5年4月20日、青森県農事試験場に技師として着任。任務は、リンゴに対する疫病害防除、落葉防止研究。その日、停車場に場長が出迎えてくれ、その夜は黒石のホテル・オカザキに宿泊した。島は研究の手はじめにリンゴ園をまわってぼうぜん。病虫害の防除の方法もなく荒れるに任せていた。1年で辞めるつもりであったが場長や経験豊富な外崎嘉七らに学ぶ。
1918大正7年、島はリンゴ減収の原因とその救済をまとめた。剪定・病害虫防除・施肥改善の試験地を開設。ついで、リンゴの大敵モニリア病の研究に取り組む。
同年11月、結婚。妻・浦子は花巻町四日市の瀬川弥右衛門(貴族院議員)の二女。
島は後年、黒石時代を思い返して
――― 滞県はわずか十有二年に過ぎないけれど、私の生涯にとって最も思い出の深い時代である。大したこともなし得なんだけれど、今でも省みて心境の曇りは認められない(『烏城下の追憶』)
1922大正11年、リンゴ研究のため、欧米に出張。
1923大正12年、ゴールデンデリシャス「接いでから18ヶ月目で成るリンゴ」をアメリカから初めて日本に導入、大きな反響を呼んだ。しかし、この品種を導入しながらも「召ばるる者は多しと雖も選ばれるる者は少なし」と、キリストの言葉を引きながら、外国種に頼ることなく、「この際、我々は純粋の日本種を作らねばならぬ」と説いた。
1927昭和2年、北海道大学助教授
1936昭和11年、農学博士。この年発表した「無袋栽培方法」に関する論文で、島善鄰の名は不動のものになった(花巻教育研究所発行「揆奮」http://www.city.hanamaki.iwate.jp/yasawach/ijin/simasiryou.htm
1938昭和13年、岩手県の嘱託を受け、リンゴ増殖計画にたずさわる。
1939昭和14年、教授。島は教授となっても、リンゴの樹に登って剪定の仕方を教えた。そんなにしてまでという人に 「学者、木に登る、か」と言ってとりあわなかった。
1943昭和18年、青森県南津軽郡農会で「時局下の苹果栽培特に袋の問題に就て」講演。
1945昭和20年、北海道大学農学部長、農林専門部長および北海道地域農事試験場長兼務。
1950昭和25年10月、北海道大学学長。
1954昭和29年10月、退官。名誉教授。北海道の園芸界で育成指導にあたり、弘前大学教授をつとめる。
1956昭和31年、北海道公安委員長。紫綬褒章。同34年、ユネスコ委員。
1964昭和39年8月9日、死去。74歳。墓所は花巻市、瑞興寺。
著書「実験リンゴ研究」「リンゴ栽培の実際」など。
参考: 『岩手の先人100人』1992岩手日報社など。
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